作者:ゆんぞ 更新:2007-07-26 [前に戻る] [次を読む] [トップに戻る]
前触れもなく重い音が響き、微かな揺れと共に周囲が薄暗くなる。この異常事態に殆どの者が窓の外へと注目し、そして見た。ちょっとした納屋くらいの大きさを持つ、白いハイヒールの靴を。まるで仮装馬車のようなその靴は静かに浮き上がり、前方へ五間ほど進んでから再び重い音を立てて落ちる。
何が起こっているかは一目瞭然だった。呆然としている着付け師の隙を衝いてイーゼムは窓から飛び出し、聳える靴の前方へと走る。走りながら上を一瞥すると、淡いドレスの裾は二階の屋根より高く 館に覆い被さるように広がっている。さながら巨大な日傘で館全体に影を落としているようだ。
その日傘から逃れたところで立ち止まり、エリザを再度見る。彼女は無表情のまま前方のみを見ており、足下に気を払う様子さえない。それだけで普段と異なるのは明らかだが、更には肩の上に乗っている見知らぬ男。彼の関与は間違いあるまい。
イーゼムは二三度深呼吸して息を整え、可能な限りの大声で呼びかける。
「おおい、どこへ行くつもりだ?!」
その声に、浮き掛けたエリザの右足が戻る。
予想外の事態続きに、エリザの肩に乗る御者は舌打ちするしかない。操心術を掛けて連れ出せたまでは良かったのだが、着せた外套が日除けの用を成さなかったのだ。等身大での連行に失敗した以上、大きさを生かして強引に逃げなければならない。
「こっちを向けよ、エリザ!」
また足元の若者が大声で呼びかけ、今度は巨人は彼のいる方向に首を動かす。
以前の術の作用もあって掛かるまでは早かったものの、短時間ゆえの解け易さは如何ともしがたい。もっと時間を使ってしっかり掛けることも出来たのだが、それは後の祭りだ。この場を何とか切り抜けなければ。
「目を閉じよ」
彼はエリザの耳元で命じる。言ってすぐに、目を閉じているかどうか今の位置から確認できないことに気付くも、彼は気を取り直して次の命令を下す。
「右足をあげて、小さめに一歩進め」
足場がゆっくりと左に傾く。言った通り右足を上げているようだ。右足を彼女の尺度で一尺ほど前に出せば、煩い男のほぼ真上に来る。
「よし、もう少し前だ」
やや熱を帯びた口調で、彼は命じた。
「待て!」
イーゼムは頭上に向かって叫ぶものの、迫る靴底は止まるどころか減速の気配さえ見せない。
「エリザ、よせ!」
もう一度叫ぶも反応は無く、イーゼムは仕方なく飛び退く。数瞬ほど遅れて小屋くらいある靴が彼の側に落ち、まずは重い音と軽い振動が、次いで砂埃や小石までもが飛びかかる。
腕で顔を庇いつつ隙間から伺うと、白い靴は地面に大きくめり込んでいる。深さは五寸ほどだろうか。女性らしい形状とは裏腹に凄まじいまでの重量感であり、踏まれたらひとたまりもないと確信させるに十分だ。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか上げられた左足が彼の方に向かって伸びている。
「おわっ!」
情けない叫び声を出しつつも なんとか避けたイーゼムは、さらにニ三歩離れて呼びかける。だが今度は思うように声が出ない。そこで彼は予め大きく息を吸ってから余裕を持って次の一歩を避け、そして大声で呼びかける。
「俺だよ、イーゼムだ! 目を覚ませ!」
肩の上の男は足元の若者を苦々しく思いつつ、その反面で感心してもいた。催眠術もあって巨人の動きは鈍く、回避そのものは容易だ。だが小屋ほどもある巨大な靴に追い立てられ、死と隣り合わせの状況下で呼びかけを続けられるだろうか。
普通なら足がすくんで踏み潰されるか、諦めて逃げるはずだ。しかしこの若者は二回に一回を呼吸に専念することで焦りを排し、絶望的な長期戦を切り抜けようとしている。惜しむらくは、語彙がやや貧弱ということだろうか。
改めて周囲を見渡す。巨人は小幅ながらじりじりと進んでおり、あと数歩で街道に出られそうだ。街道に出たら振り切ってしまおう。巨人に絶望を植え付けるのはその後で良い。
一方のイーゼムは、呼びかけを続ける中で自分の声が小さくなっているのを感知していた。一つ間違えれば即死という極度の緊張と、一瞬の回避を挟んでの深呼吸と呼びかけ。心身ともに消耗しているのも確かだが、原因はそれだけではない。
(こんなに、怖かったなんてな……)
エリザの巨躯に対する恐怖が、心の奥底で徐々に形作られている。そのことに彼は気付いてしまった。
認めたくはない。
優しさを失わず、以前にも増して慎重に行動していることを知っているから。
「前と変わらないよ」と言ったときの表情を覚えているから。
巨人の孤独な心境を聞いているから。
だが頭の中でいくら拒んでも、生物の本能が感じる恐怖は拭いきれない。気付いてしまえば尚更だ。
足の動向から目を離すことが出来ず、吸った息がなかなか肺に溜まらない。声を上げるために息を止める、その一瞬の空白を作り出す勇気が絞り出せない。
いつしか呼びかけも止まり、無言での回避が何度続いただろうか。エリザを注視しつつ動き回っていたイーゼムの視界が、いきなり上方に跳ね上がる。
石に足を取られたと気づいたのは、腰をしたたかに打った直後だ。仰向けに倒れた彼の視界には、エリザの靴底が映る。
魅入られたかのように目が離せず、貴重な数瞬を浪費してしまった。我に返ったイーゼムは慌てて後ずさろうとするものの、今度は足に力が入らない。
「くそっ!」
短い叫び声をあげ、イーゼムは腹と腕に力を入れる。殺されるのはもちろん嫌だが、それより彼女に人を殺めさせるわけにはいかない。腕を踏ん張って身を反転させ、さらに転がって逃げようとしたそのとき。
エリザの靴底が地面に触れた。
重い音と同時に、イーゼムの左腕へ激しい痛みが走る。
「う……あああ」
呻きながらも右手を突いて身を起こす。痛む左腕を見やると、肘から先が不自然に消えている。虚ろだった声は、事態を飲み込むにつれて絞り出すような絶叫に変わっていく。
どうにか立ち上がるものの、混乱に加えて片腕を失ったため左右のバランスを保てない。すぐにふらついたイーゼムは、聳え立つ白い壁に倒れ込む。それでも自分の腕を潰した靴はびくともせず、彼の体重を難なく受け止めている。
出血著しい左腕を右手で力一杯に握り、イーゼムは顔を上げる。視界の左半分はエリザのそびえる右足で占められ、上方は幾重もの内布が重厚なカーテンのようにたなびいている。
(もう駄目かもしれんな)
彼は死を予感し始めていた。このままでは、いま見ている景色が最期になるかもしれない。
(……スカートの中で終わりかよ)
がっくりと項垂れるイーゼム。何とも情けない最期だが、案外自分には似合っているかもしれない。彼は持ち前の悪戯心で視線を再び上へと持って行く。
そのとき不意に内布の列が右から左へと流れ始める。ついには彼のいる場所が日向となり、眩しい光の中に彼を驚きの目で見下ろすエリザの顔が現れる。
何かを踏んだ感触で浮かび上がったエリザの意識は、足元からの痛切な悲鳴で醒めた。
燦々と降り注ぐ初夏の陽光、眼下には森と街道。突然の変化をエリザは理解できない。
いつの間に外に出ていたのか?
いつの間に大きくなっていたのか?
泡のように次々と浮かぶ疑問に、彼女の思考は硬直してしまう。
しかしそのとき左足に何者かが触れ、そこから伝わる苦悶が彼女の混乱を消し去る。苦しんでいる者が居るなら、疑問より先に まず助けなければならない。
ドレスの裾を後ろに引くと、やはり左靴に男がもたれており その側に血溜りがある。しかも自分のよく知っている人物だ。
「イーゼム?」
何故と思うが、悩む暇はない。尚のこと治療が先だ。反射的にエリザはしゃがんで彼を拾い上げようとするが、そのとき小さな悲鳴をあげて右肩から別の誰かが滑り落ちる。
「えっ?」
不意の連続に驚かされっぱなしのエリザだが、咄嗟にドレススカートを張って男を受け止める。怪我が無いことを素早く確認すると彼女はスカートを傾け、滑り台のようにして地面へと下ろす。そして再び左足元へ向き直り、倒れているイーゼムを拾い上げる。
見れば彼の左腕の肘から先は無くなっており、右手で必死に出血を抑えているものの顔色は既に青白い。
「目が……」
覚めたのか? そう問おうとしたイーゼムの力ない声を、エリザは遮る。
「すぐに治します」
早口でそれだけ伝え、魔力を集中させる。
魔力の浸透に伴い、赤黒い断面は肉色に変わっていく。傷が完全に塞がったところでエリザは一旦魔力を止め、掌上のイーゼムに話し掛ける。
「まず傷を塞ぎました。痛むところはありますか?」
イーゼムは何も言わず、やや間を置いて首を横に振る。
「では、これから腕を再生します」
そう言ってエリザは右手の人差し指を彼の消失した左腕に沿えるが、イーゼムは震えながら身を強ばらせたため、反射的に指を離す。
「ご、ごめんなさい」
即座に謝るエリザに対し、イーゼムは「ああ……」と曖昧な生返事で応えるのみ。
「痛みました?」
心配になって尋ねても、
「いや……大丈夫だ」
どう考えても大丈夫と思えぬ弱々しい口調。加えて掌上の小さな体躯は先程から震えており、そこからの視線は微妙に自分の目から逸れている。
どうにも らしからぬ態度だが、それは腕を失った落胆と自分に対する怒りが原因だろうとエリザは判断した。そういえば治療に必死で、腕を踏んだことも謝っていない。
「あ、あの……」
ぎこちない切り出しにイーゼムが反応したところで、エリザは一気にまくし立てる。
「ごめんなさい。貴方を、踏んでしまって。
この腕は必ず治します。ですから腕がある時の意識を持ってください」
対するイーゼムはやや驚いたような表情で固まっている。珍しく理解に時間を要し、彼は少し時間を置いて ようやく頷いた。
「わかった、頼む」
そう言って、彼は肘までしかない左腕を突き上げる。エリザはその腕を右手の親指と人差し指で摘まみ、目を閉じてイーゼムの意識に自らの心を重ねる。
集中に伴って彼女の中に流れ込む感情は、イーゼムが変調した本当の理由を表していた。
軽い驚きとともにエリザは瞼を開き、掌上で固く目を閉じているイーゼムを見やる。原因は落胆や怒りではなかったのだ。体の強ばりも、震えも。
彼女は再び指を離し、心話で語りかける。
(怖いんですね、私が)
聞いたイーゼムはかっと目を見開き、エリザを見据える。
それは言えない。人一倍寂しがり屋の彼女には酷な言葉だと知っているから。急に迫られて引いた時の寂しそうな瞳を見ているから。
しかし必死で思考を巡らせても、今の状態を説明できる理由は出てこない。
さまよう視線が再びエリザの目に合う。真っすぐ彼に向けられた瞳は、むしろ心の内を語らないことを悲しんでいるようだった。
それを見て、彼は隠すことを止めた。
(すまない)
言葉を慎重に選びつつ、ゆっくりと伝える。
(信じてはいるんだが、体が言うことを聞かないんだ)
エリザは一つ溜息をつき、寂しげな微笑みを返す。
(なに言っているんですか。謝るのは私のほうですよ)
肘で途切れた腕を見やり、そして視線を再び合わせる。
(貴方の腕だけでなくて、心まで踏んでしまったのですから)
(ははは、巧いこと言うなぁ)
イーゼムは笑い、エリザは彼の反応に目を見開く。手に乗る体躯はいまだ震えているというのに、それでも笑っている。
こんなに小さく、震えているのに、この前向きな姿勢と気概……相棒の強さを目にして、エリザの胸の奥が熱くなる。彼の勇気に出来る限り応えたい。彼女は微笑みを――普段の優しく柔らかい笑みを浮かべ、想いをはっきりと伝える。
(必ず治します。貴方の腕も、心も)
彼女は目を閉じ、相棒の小さな体をそっと抱き締めた。
思い起こしてみれば、こうやってイーゼムを抱きしめるのは初めてだった。怯える患者を安心させるために鼓動を聞かせることは度々あったが、彼はそんな素振りを殆ど見せなかったからだ。急に手を持って行ったり、顔を近づけた時に驚くことはあった。だがそんな時も彼はすぐに照れ笑いを浮かべながら歩み寄ってくれた。そんなときも本当は恐怖と戦っていたのだろう。
今回はどうだろうか。彼の体から伝わる鼓動や呼気は落ち着いており、震えも止まっている。
どうやら小さな勇者は恐怖を乗り越えつつあるようだ。これなら治療も出来る。安堵の思いでエリザは目を開け、掌中のイーゼムを……
「えっ?」
思わず甲高い声を出てしまう。居るはずの小さな体が手の中に無い!
(どこに居るんですか、イーゼム?)
うろたえ、辺りを見回すエリザ。返事は来なかったが、代わりに胸の間で何かが動く。
「ひゃっ!」
突然のくすぐりに彼女は身を捩り、ドレスの胸元を見下ろす。そこには何もないが、異物の挟まる感触から答えは明らかだ。
(どど、どうして貴方がそんなところに!)
急激に上昇した心拍が文字通り胸中にいるイーゼムを直接叩く。さっきまで青ざめていたエリザの顔は今や耳まで紅潮し、頭の中は真っ白だ。
(どうしてって、お前なあ……)
彼を胸に挟んだ本人が、しかもなぜ今頃になって気付くのか。突っ込んでやりたいのはやまやまだが、鼓動だけで十分すぎるほど焦りが伝わってくるから 下手なことは言えなさそうだ。
(まあいい。今から出るぞ)
代わりにそう伝えて、イーゼムは左右の柔かい壁に四肢を突っ張る。そして手足に力を込め、胸の隙間から這い出ようとする。
だが彼にとって想定外のことが二つ起こった。一つは予想より深く手足がめり込み、左腕が短い現状では体を持ち上げられないこと。もう一つは、エリザが反応して体をびくっと震わせたこと。彼女にとっては小さな動きだが、胸中のイーゼムには強烈な揺さぶりとなる。
(おわっ!)
驚いたイーゼムは更に力を入れて四肢を突っ張り、翻弄に耐える。エリザも奥歯を噛み腹に力を入れ、なんとか胸の違和感に耐える。
(お願いします。私が引き上げますから、動かないで下さい)
(あ、ああ)
絞り出すような声で懇願するエリザに対し、イーゼムは鷹揚(おうよう)に応える。普段揺れに酔わない彼も、今回ばかりは少し厳しいようだ。
まずは深呼吸を二度三度。相変わらず何か動く度に小さな体が胸に擦れるものの、くすぐったさにも多少は慣れてきた。そろそろ次の行動に進もうとエリザは意を決するが、そのとき不意に後ろから声が掛かる。
「ちょっといいですか、お嬢さん」
「は、はいっ?」
上ずった声で応え、彼女は振り返って下を見る。そこにいるのは、さっきイーゼムを呼びにきた着付師だ。名前は確かオーエンと言ったか。
「あの、私ですか?」
二人しかいないから答えは自明だが、切迫した状況に慣れない呼ばれ方もあってつい問い返してしまう。
「ええ、そうですよ。お 嬢 さ ん」
オーエンは単純に純朴さゆえの反応と解釈したのだろう、軽く笑いながらゆっくり言い含める。和やかな雰囲気のまま、彼は問う。
「で、イーゼムを見ませんでしたか?」
「えっ?」
急所を突く質問に、エリザは声を詰まらせてしまった。
もちろん答えは知っている。知ってはいるが『胸の中にいます』なんて言えない、絶対に言うわけにはいかない。
(といっても、どうごまかせば……)
考えてはみるものの、良案は出て来ない。それどころか焦りが邪魔で思考は空回りするばかりだ。
(どうした?)
「どうされました?」
ほぼ同時に、イーゼムとオーエンが問う。
「いえ、あの……」
曖昧な言葉をどうにかオーエンに返す一方、イーゼムに心話で語りかける。
(オーエンさんが来ているんです、着付け師の)
(ってことは、俺を探しているんだな?)
(ええ)
(あぁ。胸から出す訳にはいかんわな)
(当たり前です)
突っ込みながらも、エリザは相棒の素早い察しに安堵していた。心境の変化が顔に出ないように奥歯を噛む。
(じゃあ、記憶が途切れていた事にしよう)
(え、ええ)
小さく頷いてしまい、慌てて何か考えている振りで誤魔化す。
(で、どう言えば良いんでしょう?)
余りにも安直な問いに、イーゼムはかくんと項垂れてしまう。それで擦った髪の毛がやはりくすぐったかったのか、呼吸が途切れ 周囲の柔壁が細かく揺れる。笑ってしまいそうな位の混乱振りだが、本当に一杯一杯なのだろう。
(分かった。じゃあ俺の言うとおりに喋ってくれ。いいな?)
今の彼女なら、変な台詞を伝えても素直に喋ってしまいそうだ。何を喋らせれば面白いか。
そんな考えを一瞬抱くものの、さすがに今は不味い。悪戯心を打ち払い、今度は真面目に考え始める。
長い沈黙を破って、エリザは声を出す。
「ええっと、すみません」
オーエンの視線が自分のところまで上がるのを待ってから話し始める。
「あの、ちょっと、記憶が途切れているのか……それが、うまく思い出せないんです」
「ふむ」
オーエンは頷き返している。小さすぎて彼の細かな表情を判別出来ないため 本当に信じてくれているのかはわからないが、一度出した台詞を引っ込める訳にはいかない。
「さっきまで、その、操られていたみたいで、恐らくは、その後遺症だと思うんですが……」
心話を聞きながら微妙に嘘の入った台詞を喋るため、口調がたどたどしくなるのは避けられない。だが幸いなことに、内容からすればその方が自然ともいえる。
「では、分からないということですね?」
問うオーエンに、エリザは戸惑う様子を見せながら頷く。せっかく場を切り抜けられそうなのに、安堵を悟られては台無しだ。
「心配なので、少し探して来ます」
そう言って彼女は立ち上がる。
立ち上がるとき、エリザは焦るあまり 自分の尺度と体に密着している相棒のことを忘れていた。
今までにない急激な上昇と上下の揺れに対し、イーゼムは力の限り両肘と膝で柔壁を掴んで耐える。だがそれに耐えられなかったエリザは思わず目を閉じ、胸を押さえてしまう。
(う、動かないでください!)
(馬鹿! お前が急に立つからだ)
怒気さえ孕んだやり取りも、オーエンの前には出せない。エリザは眉間に皺を寄せつつ、彼の方に向き直る。
「すみません。ちょっと、動悸が……」
「ん、大丈夫ですか?」
「ええ、まあ何とか」
心配そうに問うオーエンに、エリザはやや辛そうに微笑む。
「それに、放っておけませんから」
少しだけ本音混じりの言葉を添えて彼女は街道の方に向き直る。足跡は王都の方向にしか無いため、そちらに向かうのが自然だろう。
「では、なるべく早く戻りますね」
「はい。奴への説教も頼みますぞ」
笑いながら言うオーエンに会釈し、エリザは足早に歩き始める。
(我慢して下さいね、本当なら焦っているところなんですから)
(わかった。そっちもくすぐったいと思うが、まあ許せ)
お互い、少し厳しい行程となりそうだ。
エリザが去った後も、暫くオーエンは彼女の後ろ姿を見送っていた。幅広のドレスが持つ迫力や大きさと、巻き起こす風の量に少なからず驚いていたからだ。百五十倍となれば今の更に数倍。もう少し軽い装いの方が良かったのかもしれない。
エリザは街道を足早に進む。彼女の靴は道に深々と穴を穿つが、一歩毎に胸の間で異物が擦っている状況では足元に余り気を回せない。半里ほど歩いたところで村の建物が森の木々に隠れて見えなくなったため、彼女は適当な広場に手持ちの布を敷いて座る。
「うあっ」
くぐもった声と同時に胸中の小さな相棒が四肢を張り、反射的にエリザは二の腕で胸を押さえる。すぐに自分が何をしているか悟った彼女は慌てて力を緩める。
(だ、大丈夫ですか?)
(ああ、なんとかな)
エリザが尋ねると、幸いにも返事はすぐに来た。
(こんなとこで死んだら洒落にならんぞ)
余り元気な声ではないが、冗談を言う余裕はあるようだ。肌を通じて伝わる命の灯も少し弱っているようだが、胸から出した後でも大丈夫だろう。
(じゃあ、出しますよ)
そう言ってエリザは開いたドレスの胸元に右手の人さし指をそっと差し入れる。
(この指に掴まってください)
(あ、ああ)
応えるや否やイーゼムは体を反転させるためにもがき、そのくすぐったさにエリザは身を震わせる。
(わざとやってませんか?)
(そんなことは無いさ)
疑問に対し、意外にも真面目な声が返る。
とにもかくにもイーゼムが人さし指に掴まったところで エリザはその指を自分の方に曲げ、小さな体を保持する。次いで彼女は左手の親指と人さし指で胸を押し広げ、右手をゆっくりと持ち上げる。
胸の中で散々暴れてくれた相棒に何と言おうか。引き上げる間にエリザはそんなことを考えていたが、左腕の半分を失い右手と両足だけで掴まるイーゼムを見ると そんな考えは直ぐに消えてしまった。
(まずは、治療しますね)
そう言って彼女は右人さし指の直下に左掌を沿える。
(わかった。頼む)
意図を理解したイーゼムは左掌に降り、エリザの方に向き直って座ると左腕を彼女に突き出す。肘で途切れた小さな左腕が痛々しい。
(はい)
エリザは右人さし指の腹で彼の左腕を下支えする。小さな体はもう震えてなどおらず、表情にも恐怖の色は無い。嬉しいことではあるが、喜ぶより治療が先だ。
(では、貴方の左腕を意識してください。腕があったときのように、動かす感じで)
そう伝えて目を閉じ、イーゼムの意識に心を集中させる。
高度な術のため多少の時間を要しつつも、エリザは心眼を通じて彼の霊体を視ることができた。霊体にはしっかりと左腕がついており、左手を握ったり開いたり、腕を曲げたり延ばしたりしている。
これなら大丈夫だ。彼女は今度こそ安堵した。イーゼムは左腕の感覚を十分に覚えており、しかも落ち着いている。彼の意識に心を重ねつつ、エリザは心話でゆっくりと言霊を紡いでいく。
イーゼムの腕と袖は肘の先からゆっくり伸び、ついには指先の爪まで完全に復元された。再生した左手をしげしげと見つめながら、彼は左手の指を動かしたり右手で掴んでみたりしている。
「凄いもんだな。いち……」
一時は死ぬかと思ったんだが。その台詞の意味に気づいた彼は、慌てて口を閉ざす。しかしエリザの方を見上げると、彼女は控えめながら問うような視線を投げかけており、沈黙で通せそうにはない。観念したイーゼムは悪戯っぽい笑みを浮かべて無言の問いに答える。
「ああ、一時はどうなるかと思ったんだけどな。い ろ い ろ な 意味で」
(い、色々な意味って、どういう意味ですか)
反駁しつつも先刻のことを思い出したのだろう、エリザの頬がほんのり赤くなる。
「んー、言って欲しいのか。それは仕方ないなあ」
勿体付けて言うと、今度は少しだけ恨めしそうな目で俯く。
表情が出やすいから、弄ってて飽きない。イーゼムは笑いながらエリザの様子を見ていたが、弄って終わりに出来ないことも判っていた。
「まあ、正直死ぬかもしれんとも思ったよ。怖かった。
だけど今は、逆にお前が今まで気を使ってくれていたんだと思ってるよ」
正直に話し、すかさず追補を入れる。焦って言い過ぎたせいかエリザは しばし瞬きをするのみだったが、意味を理解するにつれて悲しげに目を細める。
(そうですか……本当に、ごめんなさい)
そう言って頭を下げるエリザ。危うく殺しかけたという事実の重さを改めて認識したのだろう、その瞳は不安と悲しみを湛えている。
「まあ気にするなよ。腕ももう大丈夫だしな」
(でも、痛かったのでしょう? それに心の方も、大丈夫なんですか?)
「ああ、まあ終わったことだよ。痛い以上に良い思いをしたしな」
前半の質問にイーゼムが笑って答えると、エリザは先刻の騒動を思い出したのか顔を赤らめる。本当に反応が読みやすい。
「心の方は、うん、そうだな」
(『そうだな』って)
後半への反応は歯切れが悪く、すかさずエリザは突っ込む。
(案内役として私のすぐ足元に来るわけでしょう?)
彼を踏み潰しそうになった靴が、本番では今の数倍の大きさで聳えることになる。彼の心はその状況に耐えられるのか、もし耐えられなかったらどうなるのか。
「ああ、それなんだが」
イーゼムは頷きながら低い声で呟く。恐怖を完全に払拭できたか、案内役をこなせるかと問われると、答えは否だ。
(じゃあ、その、代わりの人とか……)
おずおずと出すエリザの案を、イーゼムは即座に手で制する。
「いや、予行演習で何とかしたい」
(予行、演習?)
言葉の意味を掴めないエリザに対し、イーゼムは噛み砕いて説明する。心の奥底に残った恐怖は、おそらく自力でしか克服できない。だから今ここで、式典の案内役と同じことをやって慣れておきたい。
そこまで説明してやっとエリザは頷くが、不安そうな表情は変わらない。
(わかりました。ですが、絶対に無理はしないでくださいね)
今日成功しなかったら、明日挑戦すれば良い。それが駄目でも明後日がある。しかし失敗のしようによっては、心の傷がずっと残る可能性がある。そうなってしまうと挑戦そのものができない、終わりだ。
(一月でも一年でも、私は待ちます。だから、無理だけはしないと約束してください)
説明するうちにエリザの眼光は真剣さを増し、瞳も潤み始める。そこまで真摯に考えてくれることが、イーゼムには嬉しかった。
(わかった、約束するよ)
多少の間を置いてから、彼は重々しく頷く。
イーゼムを爪先の前に降ろしてエリザは立ち上がる。そうしてスカートを後ろに引くと、辛うじて彼の焦色の頭だけが見える。一歩、二歩とゆっくり歩み寄るイーゼムを、彼女は無言のまま見守っていた。
「やっぱり、大きいよなあ」
爪先を目前に出す声は、驚嘆の中に僅かな震えを含んでいた。エリザは普通に立っているだけなのに、細かな体重の動きを受けて 地面は悲鳴と共に歪んでいる。冷静に観察しても巨躯の持つ存在感は圧倒的で、魂さえ揺さぶるかのようだ。イーゼムは靴まで僅か三尺のところに居ながら、最後の一歩を踏み出すことが出来ない。
間合三尺を置いての逡巡がどれだけ続いたか。迷ったイーゼムが何となく上を見ると、彼を見下ろすエリザと目が合う。
彼女は何を言うでもなく、自分の方を見ている。その表情や眼差しは『ずっと待ちますよ』と暖かく見守っているようでもあり、『無理はしないで下さい』と心配しているようでもある。
イーゼムは一旦正面へと向き直り、そしてエリザの表情を見上げる。そうやって視線を往復させながら、彼は頭の中で繰り返し念じる。この二つは同じだ、聳えるこの靴も彼女の一部に過ぎない。だから恐れる必要など無い。
五往復はしただろうか。ようやく意を決したイーゼムは、前に一歩踏み出して右腕を勢いよく突き出す。ほとんど殴るようにして彼は靴に触れた。
触れるや否や、心話の声が彼の頭に響く。
(どうです? 大丈夫ですか?)
気遣う声は暖かく、強ばっていた肩や腕から自然と力が抜けて行く。余りの呆気なさに、イーゼムの顔には自嘲的な笑みさえ浮かんでしまう。そう、触れるだけなのだ。こうやって触れるだけの、ちょっとした勇気さえあればよいのだ。
(大丈夫だよ)
イーゼムは上を向いてゆっくり答え、今度は両掌をしっかりと靴にあてなおす。
(触れれば分かる。だから、大丈夫だ)
その口調は自分に言い聞かせるようでもあったが、十分に力強いものだった。だからエリザはそれ以上問いただすことをせず、代わりにゆっくり頷く。
(じゃあ次は、俺の前に右足を降ろしてくれ)
そう言ったかと思うとイーゼムは速足で三間ほど前に出る。
(はい)
言われた通り、エリザはゆっくり右足を持ち上げる。その足を彼女の感覚でいえば四寸強、足の長さの半分ほど前に出し、そして慎重に降ろす。右足へ体重が移るのに応じて柔らかい地面は沈んでいき、それが止まったところで重心を……
(やっぱ、でっかいなあ)
(えっ?)
いきなり聞こえた心話の声に、エリザは色めき立つ。重心移動中なのに彼が靴に触れているからだ。
(ちょ、ちょっと待って下さい。いくらなんでも早すぎます)
(ははは、悪い悪い)
きつめに注意するが、全然堪えていない。
(これの何倍かだろ。慣れておかないとな)
そういう話なのだろうか。疑問に感じつつも反駁できず、エリザは大きな溜息を漏らすのみだ。
(その口調なら、もう大丈夫ですね)
(ああ。ただ……)
皮肉っぽく言っても内心の嬉しさを隠せないエリザに対し、イーゼムは語尾を濁らせる。
(ただ?)
(式の中でも、こうやって触れて良いかい?)
イーゼムの要望に、エリザは はっと息を飲む。さっき彼が妙に素早く触れてきた理由が判ったからだ。
(もちろん、構いませんよ)
親指を動かして彼女は答えた。
(あとは、そうだな。ちょっと遠くの方を見てくれないか?)
(え? あ、はい)
目が合わなくても大丈夫かどうか確認したいのだろうか。そう推測したエリザは特に疑問を抱くこともなく正面へと向き直る。
しかし予想に反して、イーゼムからは残念そうな声が返ってきた。
(あー、見えないんだなあ)
それを聞いたエリザは慌ててドレスの裾を押さえる。内布を巡らせているから見えないと聞いているが、だからといって覗いていいわけではない。
(見えないって、何がですか)
強い語調で問い詰めるものの、イーゼムは意に介さない。
(答えは知っているだろう。知らない振りは良くないな)
平然と返し、更に畳み掛ける。
(あー、あとそれから。しゃがむ時は裾を巻き込まないと駄目だぞ)
(……)
顔を紅くするエリザと、それを見て笑うイーゼム。左腕を踏まれたことに対する、彼の小さな仕返しだった。
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