総てを癒すもの

第5章 「式典」(2)

作者:ゆんぞ 
更新:2007-02-04

[前に戻る] [次を読む] [トップに戻る]

王都から少し離れた離宮で式典の朝を迎えたエリザは、鏡を前にして声を出せずにいた。

鏡に映っているのは、黒い長髪とは対照的な銀のティアラをのせ、淡い色調で彩られたドレスを纏う自分の姿。内布でふわりと広がった臑丈のスカートにコルセットで締まった腹部、やや開放的な胸部にはティアラ同様に正十字型の碧石が鎮座し、腕は膨らんだ肩袖と長手袋で纏められている。普段とは余りにも異なる装いを前にして、エリザはしばし鏡に見入っていた。試しに手を振り、目前の像も動くのをみて自分の姿と確信しつつあるものの、地に足の着かない高揚感は収まるべくもない。
「よく似合っていますよ」
傍らで彼女の腰を留めていたハンナが声を掛ける。
「え、あ……ありがとうございます。何だか、夢みたいで」
鏡越しに軽く頭を下げるエリザ。声の上ずり具合に、ハンナは笑って応じる。
「ほら、もうちょっと力を抜いて。余り緊張していると街で転んでしまいますよ?」
「や、止めて下さい。縁起でもない」
エリザはハンナの方を向いて反駁するが、そこで初めて相手の表情から冗談だと気づき、顔を赤らめて俯く。

「練習どおり、一つ一つの手順をきちんと踏めば良いんです。平静を保ちさえすれば、難しいことなんてありませんからね」
ゆっくりとした口調で諭すも、エリザは俯いたまま小さく頷くのみ。衣装から行動から注目の度合いまで全てが初体験ゆえ神経質になるのも無理からぬことではあるが、過度の緊張は悪い結果を招きかねない。
「じゃあ、とりあえず大きく息を吸って」
「はい、吐いて」
今度は深呼吸を促してみる。その間もエリザの表情は滑稽なくらいに真剣だが、続けるうちに少しずつだが肩から力が抜けているのが見て取れる。

たっぷり十回は繰り返した後で、ハンナはおもむろに尋ねた。
「どうですか? 少しは落ち着きましたか?」
すぐには答えず、うつむき加減で熟考するエリザ。
「ええ。でもやっぱりまだ、街を歩くことを考えると」
「そうですね」
ややあって返した不安気な答えに、ハンナは微笑みで応じる。
「冷静に考えて判断できるなら大丈夫です。緊張してもとにかく焦らないこと。いいですね?」
「はぁ」
気の抜けた返事。初々しいとも言えるが、なかなか難しいものだ。


そんな折り、不意に戸を叩く音が聞こえた。
「はい、どうぞ」
ハンナが答えると戸が開き、軽装の青年がひょっこりと顔を覗かせる。その男は部屋に首を突っ込んだまま中を一瞥し、そしてハンナに尋ねた。
「すみません、エリザはどこですか? 此処にいると聞いたんですが」
青年はあくまで真顔だ。意外な人物の登場に唖然としていたエリザだったが、質問の意味を理解するにつれて悪戯っぽい笑みに変わる。
「そういう貴方こそ誰ですか。人を呼びますよ?」
歩み寄り 指さして詰問するエリザだが、顔は笑っている。

そんな二人のやり取りを見て、ハンナは溜息と共に肩を降ろす。このイーゼムという男は、緊張を解く術でも使えるのか。
「早かったじゃない。どうしたの?」
ハンナの問いに、イーゼムは決まり悪そうな笑みと共に答える。
「いやあ、ちょっと準備を切り上げてきたんで」
よく見ると彼の装いは地味で、爪先案内人という役目を思わせる物は見あたらない。
「そこまで心配してたんだぁ」
流し目でイーゼムを見やりながら、ハンナは言う。
「若いって良いわねぇ」
「ん? いや、若いって……道化みたいな格好で馬を駆るわけにも行かないんで」
説明するイーゼムの口調は微妙にぎこちない。笑みを浮かべつつその様子を見ていたハンナだったが、ふと思い出したように頷いて言う。
「うん。じゃ、私も準備してくるわね」
「え?」
不意の発言に虚を衝かれた二人だったが、ハンナはそれを別段気にする様子も無い。
「化粧に時間が掛かるのよ。もう若くないからね」
冗談っぽく言い残し、あっさりと部屋から出てしまった。


イーゼムは椅子を二つ運んで片方をエリザに勧め、自分も腰掛ける。
「面白い姐さんだな」
少し間をおいてからぼつりと感想を漏らす。
「ええ」
頷き、エリザは答える。
「でも、今日式典に臨めるのも あの人のお陰ですよ」
街を練り歩く話を聞いた時は不安で一杯だった。稽古係がハンナ以外だったら、今のように上達したか分からない。
「そうだな。その靴で歩くだけでも一苦労だったらしいし」
ハイヒールの靴を指さしつつ、イーゼムが言う。
「で、今はどんな感じなんだい?」
「え? えーとですね」
しばし考えている様子だったが、エリザは椅子から立ってドレスの膝裏を軽くはたく。
「見せた方が早いでしょう」
そう言って身を翻し、歩き始める。

エリザは真剣な表情で一歩ずつ確実に歩を進めて行く。一歩毎にドレスの裾を後ろに送り、足の下りる辺りを確認してから後足を上げ、ゆっくりと前に動かして足が前後に並ぶように下ろす。ゆっくりとした動作は装いに負けず雅やかで、腰を左右に捻る歩き方がちょっと艶めかしい。

まるで別人の様子に半ば魅入られながら、イーゼムは式典での自分の姿を重ね合わせていた。爪先の三分の一程度しかない自分が足下をうろつき、合図を送っているところを。頭上ではドレススカートが右へ左へと翻り、家を五~六軒並べたくらいの白い靴が落ちてくるのだろう。
(壮大な光景なんだろうな)
つい苦笑が浮かびそうになり、慌てて彼は奥歯に力を入れた。

十歩ほど進むと次は左に曲がるよう足を置き、三歩目をさらに左に曲がって元の場所まで戻る。最後にエリザが一礼したところを、イーゼムは拍手で迎える。
「良かったよ。いやあ、優雅じゃないか」
「え、そうですか」
意外にも素直な感想だったのでエリザは やや戸惑ったが、すぐに彼女はにっこり笑ってお辞儀で応える。
「ありがとう。でも人混みの中だとやっぱり不安ですから、ちゃんと誘導をお願いしますよ」
「ああ、任せとけ」
今度はイーゼムが、親指を立てて笑う。


「何にせよ、だ。今日の披露目が終われば、他の街にも行きやすくなるな」
唐突に、イーゼムが真面目な表情で切り出す。
「ええ、そうですね」
エリザも確たる声で応える。
「受け入れて貰い易くなるのなら 助かります」
王からの書簡が届いてもなお住民の恐怖や疑念は強く、街に入るまでには辛抱強い交渉を強いられていた。それを思い出したのか、彼女の表情も重くなる。
「貴方にも負担を掛けていましたしね」
恐怖の対象となるエリザ本人に出来ることは限られており、交渉の役はイーゼムに回ってくる。しかし実際には交渉役というより人質役と言った方が近い扱いだった。弱みを見せ均衡してからが本番なのだと彼は言うのだが、外で待つエリザは気を揉むばかりだった。
「あんなことが無くなるだけでも、ほっとします」
そう言ってエリザは胸に手を当て、溜息をつく。
(よほど心配してたんだな……)
イーゼムは頷きながら苦笑していた。危険な目にあったのは自分だったにも関わらず、なんだか申し訳ない気がする。
「だけど、そっちは逆に忙しくなるぜ。なんたって『野望』に近づくんだからな」
「野望って。なんですかそれは」
大仰な文言に対し、破顔して意味を尋ねるエリザ。しかしイーゼムは何事もないかのように、さらりと答える。
「言っただろう。『総てを癒す』と」

不意を打たれ、エリザは何も返せずに目を見開く。
丘の上で密かに語った想い。日々忘れることはなく、治療への感謝を受けるたびに目標へ歩んでいることを感じてもいたが、口に出すと恥ずかしいので胸に秘めていた想い。
「いきなり、そんな……」
やっと出た言葉。その戸惑い振りにイーゼムは軽く笑うも すぐに真剣な表情に戻り、低い声で囁くように言う。
「がんばれ。きっと多くの人がお前を待っている」
エリザは無言で頷いた。

そのとき、突如として馬の嘶きが響き、静粛を打ち破る。
次いで騒がしい足音が一直線に近づき、ノックもなしに扉が荒々しく開く。
「イーゼム殿、途中で抜けるとはどういう了見ですか!」
入ってきたののは、中年の痩せた男だった。身軽な服装だが大きな袋を肩から下げている。
「いや。あー、すみませんロンテさん。直ぐに戻りますので……」
「もう間に合いませんよ!」
イーゼムの返答を遮り、更にまくしたてる。
「衣装を持って参りました。ここで御召し替え頂きます」
「はぁ……」
凄まじい剣幕からして、抵抗は無駄のようだ。悟ったイーゼムはあえなく連行され、退場となってしまった。


気づいたら独り、部屋に残されてしまった。

準備することは特に無い。着替えも化粧も済んでいるし、足元の香り付けも終わっている。
大鏡に自分の姿を映し、次いで自分の背中を映して確認するも問題とおぼしき点は見当たらない。仕方ないので大人しく椅子に座り、どちらかが準備を終えるまで待つことにする。

しかし思ったほど時間の経たないうちにノックが鳴らされる。入って来たのは、体にぴったり合う革ベストの男。
「馬車の騎手を勤めるフェイタスと申します」
名乗った男は深々とお辞儀する。
「はぁ……」
勝手にはいることを咎めようとしたエリザだったが、間髪入れぬ対応に何も言い出せない。それでも彼女は次に思い浮かんだ疑問をぶつけてみる。
「まだ時間ではないと思いますが、何か御用でしょうか?」
「ははは、申し訳ない」
男は頭をかきつつ詫びた上で、式の主役を一目でいいから見たかったと説明する。
「見に来て良かった。本当にお美しい」
悪びれる様子さえ無いのは困ったものだが、ここまで丁寧だと無碍に追い払いづらい。エリザがそんな逡巡を抱えている間にフェイタスは彼女の側まで近寄る。
「ほら、鏡をご覧くださいませ」
言われるままにエリザは鏡を見る。鏡に映るのはドレスに身を包んだ自分だが、やはりまだ どこか自分でないような違和感がある。
「もっと近づいて、よーくご覧ください」
「はぁ……」
特に疑問を感じるでもなく、エリザは全身が見えるぎりぎりの距離まで近付く。
「この堂々たる姿。百五十倍となれば、王都の城さえも踵の下に置くことになるのですね」
フェイタスが耳元で囁く。
「遮るものもなく、王都の全てを見渡せますよ。
逆に街の全住民が、貴女の御姿を仰ぎ見ることになります」
巨大な自分の姿を想像しているのか、エリザは微かに顔を赤らめ無言で頷く。
「想像してください。あなたの御姿が街のあらゆる建物を圧倒し、空さえも統べるところを」
「想像してください。何万という民が、あなたの足元で歓喜する場面を」
間をおきながら、あくまでゆっくりと囁くフェイタス。エリザは鏡に視線を固定したまま頷くのみだ。
「この世界を統べるのに、これ以上相応しい方がいらっしゃるでしょうか」
「民は待っています。美しく、気高く、そして圧倒的な力を持つ救世主の出現を」
「さあ、私と共においで下さい」
フェイタスが差し出した手に、エリザは自分の手を重ねる。その瞳は既に焦点を失っていた。


[前に戻る] [次を読む] [トップに戻る]