総てを癒すもの

第5章 「式典」(5)

作者:ゆんぞ 
更新:2010-10-14

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紫薫の風と優しい笑み、そして重い地響きを振る舞いながら、エリザは西門から続く大通りを進む。途中でふらつくこともあったが、市民はそれさえも楽しんでいたようだ。また足跡に躓いて転ぶ人も若干居たものの、これも周りの人々が彼女の爪先まで運んでくれたので容易に治療することが出来た。

中央広場までの十町(一キロメートル)は彼女の尺にして三間半(六・三メートル)程度。小幅でも十五歩に過ぎない行程だが、足場確保や何やらで色々と時間が掛かってしまい、広場に入った頃には優に一刻が経っていた。

南北に延びる中央広場は数万人を収容できる広さで、南西にはエリザの通ってきた通りが、北にはラファイセット城が配されている。城の幅と高さは共に十五丈(四十五メートル)余、王国一はもちろん全島でも屈指の規模だ。

しかし今日ばかりは相手が悪すぎた。

中央広場はエリザにとって小ぶりな机程度の広さに過ぎず、遠くから存在を示していた城も踝の少し上までしか来ず、大きめのドールハウス程度でしかない。何故か申し訳なくなるほどの対比ぶりだが、ドレスの丈は尖塔に掛からないとう設計されていることを考えれば、この高さで助かったというべきなのかもしれない。


部隊が広場とその周囲まで人払いするのを待ってから、エリザは切り出す。
「では、これから広場に座ります」
右手でスカートの裾を足に巻き付けて押さえ、左手をやや前に出しながらゆっくりと腰を下ろしていく。

裾が周囲の建物に当たると壁を崩す可能性もあるので、慎重に動かなければならない。練習でも苦労したところで、『裾が当たるのは仕方ないが、転ぶのだけは避けるように』と注意されている。

完全にしゃがんだところで左手の指先を着き、今度は膝を下ろしていく。立ち位置に問題はなかったようで、膝は城の展台の目前を通って着地する。続いて右膝に体重を預け、後ろを見ながら左の爪先を立てる。右側も同様に動かし、それでやっと安定した姿勢に移行することが出来た。

一息ついて周囲を見渡すと、あつらえたように広場の端々まで淡いドレスが行き渡っている。特に幅が厳しく、腿や腰は広場を越えて周囲の家々に覆い被さっている。家の高さまで勘定して『正座すれば広場に収まる』と提案した師匠には呆れるほかない。

ともあれ、問題が出なかったのは確かだ。エリザは視線を正面に戻し、城の展台に向かって語りかける。
「はい、終わりました」
彼女の言を受けて、展台の奥から赤い服に身を包んだ恰幅の良い人物が現れる。続いて同様にゆったりした服の男が四人、いずれも重々しい足取りで出てくる。

エリザは目を見開いて その様子を凝視していた。
出てきた王たちは、余りにも小さかった。恐らくは先頭で鷹揚に手を挙げているのがラファイセット王で、後の四人が他国の王だろう。豪奢な衣装も、余裕の物腰も、王の威厳すらも、百五十対一という対比の前では意味をなさない。
大きさの差は、かくも残酷なものなのか。エリザは何も言えず、王たちを見つめていた。

一方、展台に出たラファイセット王もまた、山のように聳えるエリザを目前にして言葉を出せなかった。

王たちは城の窓から巨人の歩みをずっと見ていた。嵩上げされた靴の踵は居並ぶ家々より高く、爪先しか隠れていないため宙に浮いているように見える。視線を上にあげると、巨大なドレス姿が屋根より上の空間を独占している。周囲との差はあまりにも圧倒的で、家々と巨人の両方が実在するとはどうしても思えなかった。足元を気遣う窮屈そうな動きも、時に微笑んで話しかける言葉も、優雅な夢遊病患者に見えてしまうくらいだ。

不自然な光景を醸す巨躯は近づくにつれて更に大きくなり、広場へ着く頃には窓の側でなければ全容を見ることさえ出来なくなる。他の王たちも平静を装ってはいたが、全員が窓に寄っていたから似たような心境だろう。

巨人が広場に座る段になってようやく、彼等は本当の大きさを知ることとなる。片方だけで展台の幅より広い膝は眼前をかすめ、巻き起こす風が部屋中のカーテンを一斉になびかせる。もしこの膝が当たれば、城などひとたまりもないだろう。


そして今、展台からの視界は巨人のドレスに占領されている。膝の作る台地は彼等より高い位置に広がり、奥にある丸い腰は周囲の家々に迫り出している。上方には女性らしい起伏を帯びた上半身が聳え、その上にやっと巨人の顔がある。穏やかな表情と見守るような眼差しは迫力を幾分和らげているように思えた。

目が合ったことに気づいた巨人は ややぎこちなく微笑みかけ、右手を膝から持ち上げる。
(それでは、掌をお出し致します)
心話が王達の頭に響く。その優しい声に反して、迫り来る掌は展台など簡単に握りつぶせそうな大きさだ。後ずさりしそうになった王は慌てて掌から目を逸らし、巨人の顔を見上げる。そうすれば心が落ち着くことを彼は本能的に感じていた。
「さあ、お乗り下さい」
エリザに促され、ラファイセット王は視線を前に戻す。彼の正面には予め備え付けられた階段があり、その最上段と続くように巨人の白い指が添えられている。指の幅は階段より広く、一尋半ほどはありそうだ。

彼は巨人の顔を見上げて頷き、ゆっくりと階段を登り始める。登るに従って視界が開け、手の全容も見えてきた。中央の中指は軽く曲げられて谷のように窪み、その脇には ぴんと張られた人差指と薬指が掌までの橋渡しをしている。
(まるで雪山だな)
王の率直な感想だった。そういえば伸ばされた人差指からは、雪を踏みしめるような重い音が微かに響いている。筋肉の軋み音だろうか。王は巨人を見上げてみる。
(い、如何なされました?)
間髪入れずに心話で尋ねる巨人。注意深く見守っていたがゆえの即応である。
(力が入リ過ぎているように見えるのだが、大丈夫かな?)
(え?)
指摘によって巨人の目は大きく開き、そして直ぐに伏せられる。
(あ、はい。申し訳ありません)
心配されるとは思っていなかったのだろう。彼女のめまぐるしい表情の変化は、何を考えていたか察するに十分だった。
(気にするな)
王はまず心話で伝え、それから宣言する。
「では、参るぞ」

ラファイセット王を筆頭に、王たちは展台から次々とエリザの指を伝って掌へと移る。掌までの二十歩余り、不安定な足場に挑む彼等を巨人は緊張した面持ちで見守っており、下にはもう片方の手が添えられている。暖かい気遣いに安心しつつも圧倒的な体躯差を感じざるを得ず、自分達が小さな虫になったような錯覚さえおぼえてしまう。

全員が掌に到着したところでエリザは座るよう促し、確認してから自身の上半身をゆっくりと起こす。起こしきったところで両掌を体に当て、腰から上をぐっと伸ばしながら息を吸い、吐くと同時に全身の力を抜いて首を左右に傾げる。
「申し訳ありません。身を屈めておりましたので、少々疲れてしまいました」
胸元に据えた掌を前に上げて微笑みかけ、そっと話しかける。しかし当の王たちは皆呆然と自分のほうを向くばかりだ。
(どうされました?)
尋ねても反応が無い。さっきの動作で揺れ酔いでもしたのだろうか。そう思って更に問うてみる。
(もしかして、揺れたのでしょうか?)
(ああ……なかなかの揺れだった)
やっと返ってきた言葉と、釘付けの視線。ようやく呆然の理由がわかり、エリザは顔を赤らめつつ 溜息を漏らした。一国の王とて男、単純なものである。


事前の打ち合わせによれば、写生が一通り終わるのを待ってから港に行き、王の挨拶に入る予定である。エリザはその予定を周囲の群集に伝え、画家たちがいる物見櫓を一つ一つ注視してみる。

確かに、所々にある櫓の上には画板が据えられ、その脇には画家と思しき人物が座って彼女を注視している。しかし彼らは首を捻ったり筆を構えるばかりで、絵を描いている様子の者は誰も居ない。
「写生の具合は如何ですか?」
声を出して近くの櫓に尋ねるも、話しかけられた画家は肩をすくめて応える。

八十丈のドレス姿という稀有な被写体を求め、画家達は自ずとラファイセットに集結していた。彼女の堂々たる姿を残したいという国の思惑もあり、彼等には滞在費や画材、そして写生場所まで提供されていた。そして意気揚々と物見櫓に陣取った画家達だが、百五十倍という大きさについては深く考察していなかった。

結果として、彼らの眼前にある光景は予想から大きくかけ離れていた。街を歩く姿を描こうにも、巨人が建物と交わるのは踵よりも低い位置でしかなく、正直に描けば町と女性を別々に描いたような構図にしかならない。広場に座る姿を描こうにも櫓より膝の方が高いため、やはり町並みから抜け出した上半身という図になってしまう。もっと辛いのは近くに陣取った画家達で、空を覆うドレス姿に手も足も出せないようだ。
「いやもう、恥ずかしながらお手上げですよ。貴女は大きすぎる!」
画家の一人が明るい声でそう言い、降参とばかりに両手を挙げる。支援を受けている手前 敗北宣言は出したくなかったが、自分の想像力を打ち負かすだけの被写体に逢えたのは本望なのだろう。
「是非、後日、もう一度描かせて下さい。お願いします!」
「ええ、構いませんよ」
勝手に盛り上がっている画家を前に、エリザは苦笑しそうになるのをどうにか抑えつつ返す。それにしても『貴女は大きすぎる』とは、少しぐらい失礼だと思わないのだろうか。
(……思わないんでしょうね)
でなければここまで興奮した口調なわけがない。もしかしたら、失礼だと感じているのは自分だけなのかもしれない。エリザは左手を眉間に当て、少しの間だけ目を閉じた。


写生を待つ必要が無いなら、次は港でラファイセット王の挨拶だ。エリザは王達に一度視線を落とし、正面に向き直ってゆっくりと深呼吸する。この挨拶は湾内に立ったエリザの掌から行う予定であり、言い換えると彼女は王達を掌に乗せたまま立ち上がって港まで歩かなければならない。

この立ち上がる動作もまた難しく、練習では後ろに転んでしまったこともある。服は泥だらけになり、全身で粘土の家を百軒近く潰してしまった。
「これ、本番でやったら大迫力よねぇ」
楽しそうなハンナの声を覚えている。

何度か息をつき、落ち着いてきたところでエリザは宣言する。
「そろそろ立ち上がります。裾が風を起こすと思いますので、注意してください」
彼女の言葉を聞いて、今まで静まっていた群衆から再び歓声が上がる。
(そこまで、一々祝って頂かなくてもいいんですけど……)
滲む苦笑を抑え、エリザは掌上の王達を注視する。
(これから掌をすぼめますから、その後にお座り頂けますか)
王達が頷くのを見て、彼らが乗る右掌を窪ませる。市民から見えなくなったところで王達は腰を下ろし、エリザの方に向き直る。
(では、体を起こします。揺れると思いますので、十分にご注意下さいますようお願いします)
念を押した上でエリザはドレススカートの後ろを抑え、ゆっくりと上体を起こす。それによって前腿が城に迫り、テラスに控えていた家臣たちは奥へと逃げる。十分に腰を浮かせたところでエリザは後ろを注視し、安全を確認した上で足首を曲げて爪先で地面を捉える。靴皮の軋み音と後ろのどよめきからして、結構な迫力なのだろう。
「それでは、今から立ち上がります」
周囲にそう伝え、エリザは後方の爪先に体重を移してから膝を慎重に浮かせる。持ち上がる膝に引かれてドレスの布地が流れ、今度は前と横から声が上がった。布地は建物を擦っているようで、もしかすると窓を何枚か割っているかもしれないが、その程度は仕方ない。

蹲踞の姿勢になったところで、彼女はヒールを地面に降ろす。安定した姿勢でひと呼吸置き、左手でスカートを押さえ、右手の王たちにも気を払いながらゆっくりと立ち上がる。家々の屋根がどんどん視界の下方に落ち、再び街の全体が見渡せるようになった。

周囲の人たちからは少し離れてしまったが、それでも彼らのどよめきはしっかりと耳に入る。大丈夫、一人ではない。
「では、港に向かって進みます。誘導係の皆さんは、準備をお願いします」
エリザは足元の誘導係を見て微笑み掛け、視界に入る位置まで右手の王たちを持ってくる。


城から港までの道幅は広く、足を降ろす場所には余裕がある。しかし今まで以上に人が多く集まるのに加えて大切な貴賓を掌に乗せているので、緊張の度合いはさして変わらない。

そんな心の内を知ってか知らずか、貴賓たちは掌の縁まで這い進もうとする。
(あ、あの……危険ですのでお止め下さい)
(構わんよ。無礼講だ)
上から見ているエリザには今にも落ちそうに見えるのだが、制止の声は微妙な理由であっさり却下される。仕方がないので、彼女は歩みを止めて王達が指先に到達するまで待つ。
(そんなに力を入れなくても大丈夫ですよ。お陰さまでとても安定していますから)
王の一人が優しく諭すものの、何か間違っている気がしてならない。

ともあれ、王達は高みからの景色を堪能しているようだ。
(これは凄い)
(いやぁ、山から見るのとはまた違いますな)
(うむ。ここまで小さく見えるとは……)
感嘆した様子でしきりに感想を交わしている。やがて足下の観衆に気づいたのか、王達は座ったまま沿道の人々に大きく手を振る。群衆から歓声が上がったのでエリザも軽く左手を振って返すと、さっきより大きな歓声が上がってしまう。

さすがにばつが悪いので、彼女はすぐに手を下げて前に進もうとする。しかしそのとき、王達の一人が不意にエリザを見上げて問いかける。
(貴方から見ると、さぞや小さいのでしょうな)
(え? あ、ええ。そうですね……)
突然話を振られ、エリザは戸惑って上げかけた足を下ろす。振り方もそうだが、余り小さい小さいと言いたくないエリザにとっては少し困った質問だ。
(それだけ慎重に動かなければならない、と気が引き締まる思いです)
暫し考えたのちに彼女は答えた。


そのころ、街から離れた海岸の断壁では別の儀式が進行していた。
「まさか、貴方と共謀するとは思いませんでしたよ」
「ははは。我らにとって神は普遍にして数多の存在だからのぅ」

その言いように、鎧の男は眉を動かす。一神を奉じる彼の教団には受け入れがたい発言だ。表情の変化を気取られぬよう、空を見上げる。

南の空には夏独特の厚い雲が沸きつつある。海風を少し弄るだけで雷を起こせるのだから楽なものだ。
「炎の力を注げば更に大きくなる、か……」
今でさえ街のどの建物より高く聳えているドレス姿の治癒術師。更に雲を突き抜け、広がる裾が山のように鎮座する様はどう映るのだろう。恐怖が人心を引き離すのか、それとも畏怖の対象になるのか。

どちらであっても好都合だ。あとは彼女の心を引き入れればよい。心には隙があるし、共謀している司祭は手段を目的としている節がある。そこを衝けば彼等を出し抜くのは容易だろう。大きな博打だが、打つだけの価値はある。

彼自身気づかぬうちに、魔法戦士は口許を歪めていた。


五間(五百メートル)ほど進んで港に着くとエリザは目を閉じ、水の御霊たちに心話で願い出る。
(万変のもの、深さ持ち蕩うもの。いま大地の支えを持ち、我を支え給え)
目前の水面に微妙な変化が出たのを感じとった上で、エリザは係留されている船を跨ぎ越して湾内に出る。

足を踏み入れても海面は微塵も沈まず、膨大な体重をしっかりと支えてくれる。足元には人も船もおらず、正面を向けば晴れ渡る空と遠い雲、そして碧い海だけが視界に入る。

エリザは大きく息を吸い、そしてゆっくりと吐き出す。自分の大きさを感じさせない光景に、彼女は何とも言えない安堵のようなものを感じていた。立てば城の尖塔も膝下に届かず、座れば広場を埋め尽くす。そんな巨躯で半日も居たため、気疲れも溜まっていたのだろう。思わず腕を伸ばしそうになったが、賓客に気づいて止める。

いくらか緊張が解けたところでゆっくりと街に向き直ると、当たり前だが街の小ささは何も変わっておらず、ご丁寧にも空まで灰色の厚雲に遮られている。晴れ渡る空と海を見た後なので、差が余計に際立ってしまうのだ。例えば港に係留されている船。三本マストの外洋船でさえ片手分の大きさでしかなく、これで海原に挑むのは何とも無謀に見える。赤屋根の家たちも靴の爪先に四~五軒は入りそうで、海や空が荒れ狂ったら無事では済まないだろう。そうなったら自分が護るしかないのだろうか……

(あー、もし?)
(はい!?)
声を掛けられて、やっとエリザは我に返った。右掌に視線を移し、まず頭を下げる。
(申し訳ありません。少し考えごとをしていましたので……)
(どんなことを考えておられたので?)
(え? あ、いえ。その……)
思いがけない質問にエリザはしどろもどろになってしまう。しかし、答えはすぐに当てられてしまった。
(おそらくは、海と街を比べていたのでしょう。今の大きさだと、差が目立ちますよね)
(……)
違うと言いたかったが、都合のいい嘘など出てこない。そういうのが得意な仲間もいない。
(はい。申し訳ありません)
素直に謝るしかない。
(ははは、気にしないでください)
(うむ。儂も似たようなことを考えておったからの)
(おや、貴殿もですか?)
しかし失礼な考えだと思っていたエリザをよそに、王達は気にするどころか勝手に盛り上がっている。
そんな中、ラファイセット王が不意にエリザを見上げて問う。
(そういえば、例の件に関する返答は如何かな?)
(例の件……ですか?)
意味がわからずに問い返すが、王は意に介さない。
(まあ、悪いようにはせぬ。良い答えを期待しておるぞ)
(はぁ……はい)
勝手に話を進められてしまい、エリザは生返事で応えるしかなかった。


エリザはラファイセット王に拡声の術を施し、背筋を伸ばした上で街に向き直る。ここからは王が主役。自分は彼等がよろめいたり、彼等より目立たったりしないよう気を付けるだけだ。

王はエリザの指先までゆっくりと進み、声が届いているか確認するように仰々しく咳払いする。そして高所から失礼するという旨のお決まりの挨拶を経て、ラファイセット王の演説は今日という日にエリザを迎え、紹介できたことへの感謝から始まった。『巨大で力強く、優しさと包容力に満ち、聡明で美しい治癒術師』とまで持ち上げられてしまい、当のエリザとしては赤面してしまう。

続く話の内容は、エリザの力に向けられた。彼女の力は比類なく、島内五国の軍勢をすべて合わせても敵わぬであろう。あまりにも強大であるが故に、政争の種となることが憂慮される。よって王達は島内の紛争に際し、双方への治療以外には支援を求めない旨を確認し、不可侵の条約を締結した。
「というわけで、エリザ嬢には、今まで通り治癒術師として広く活躍頂きたい」
皆を治療したいと思っていた彼女にとっては、願ってもない配慮だ。
「ご配慮感謝いたします。これまで通り、癒し手としての任務に全力で当たる所存でございます」
王に即答し、そして民衆に向き直る。
「至らぬ点も多いかと思いますが、これからも宜しくお願い致します」
一斉に歓声が挙がり、エリザは満面の笑みで応える。

歓声が収まるのを待ってから、王は次の話題を切り出す。
「またその一方で、この島は大陸より独立して百余年、未だ支配から脱しておらぬ。不平等を正し、対等の地位を確立せねばならぬ」
今度は妙に扇動的だ。なぜ今そんな話を切り出すのだろう。そんなことをエリザが考えている間にもラファイセット王の演説は熱を帯びていく。
「しかし、そのために戦を仕掛けるのは本意ではない。血で過去を清算することなど出来ぬ」
ラファイセット王は言葉を区切り、ゆっくりと後ろに向き直る。そして遥か上方に位置するエリザの顔を見上げ、片膝をつく。それに倣い、他の王達も彼女に向かってひざまずいた。

何事かといぶかしむエリザに構わず、ラファイセット王は静かに宣言した。
「不可侵の担保と地位の見直しを実現するため、貴女を真の王として迎えたい」


あまりに唐突な申し出にエリザは目を見開き、息を吸ったまま吐き出せない。
(真の……王?)
言葉の意味を飲み込むだけでも時間が掛かる。
『真の王』
エリザが王都に居たころ、ラファイセット王による就任式に行ったことがある。五国の王が一年交代で就任し、島内の結束を示すのだと聞いたのもそのときだ。
(それが、私に?)
今度はそこの繋がりが理解できない。いかに名誉職としても、いきなり王たちを飛び越えてその上に出るなど……
「そ、それは一体、どういう……どういうことなのでしょうか?」
しばしの間をおいて、ようやく上ずった声を搾り出せた。

話は通っている思っていた王にとっても、エリザの反応は想定外だ。
「ははは。まあ、そう驚くでない」
(使者に信書を持たせたはずじゃが、届いておらぬのか?)
冷静な声と、やや焦り気味の念話がエリザの耳と心に届く。
(ええ)
(ううむ、あやつは減棒じゃな……まあいい)
「改めて言うぞ。おぬしに、真の王となって貰いたい」
腹芸に感心する暇もなく、ラファイセット王は滔々と説得を続ける。当面は儀式への参加のみ求め、政治的な場には同席を求めないこと。大陸との交渉だけでなく、王や領主からの干渉を防ぐためにも地位が必要という判断に達したこと。
「であるから、そなたの本分を損わぬことは保証しよう。どうかの?」

しかしエリザとしては是とも否とも言えない。
「ええ、あー、その……」
曖昧な言葉を返すのがやっとだ。もちろん、破格の条件であることは解る。説得には相当な手間が要ったことも想像できる。交渉したのはラファイセット王か、ローンハイム師匠か、それともグランゼル様か……

しかしいくら肯定的に考えても、今すぐ応じる気にはどうしてもなれない。とはいえ何となく嫌とかそんな曖昧な説明で収まるとは思えず、応じられない理由を自分の中で掘り下げなければならない。

やはり大きいのは、癒し手としての自分に対する自負だろう。ラファイセット王は治癒術師としての本分を保証してくれると言ったが、実際に自分が治療するであろう多くの人たちはどう感じるだろうか。

そこまで考えれば、もう答えは決まったようなものだ。
「申し訳ありません。次の就任式まで、考えさせて頂けませんか?」
頭を下げ、弱々しい声で切り出す。
「多大なる配慮を頂き、本当に感謝しています。ですが、王である前に私は治癒術師です」
もっともだと言わんばかりに王は頷く。その点を何よりも配慮したという自負が滲んでいた。
「そのことを、島の皆様に直接お会いした上で、知って頂きたいのです。
真の王を名乗るとしても、癒し手としての私を皆さんに覚えて頂いた後にしたいのです」
先よりもラファイセット王の頷きは強く、他の王達も同意しているようだ。
「総てを癒し、真の王になる……うむ、それなら島の誰もが賛同するであろう」
王の賛同は、儀式を台無しにするのではないかというエリザの心配を打ち消すに余りある力強さだ。
「あ、ありがとうございます!」
嬉しさのあまり、エリザは力一杯頭を下げる。街から見れば微笑ましい光景だが、掌の貴賓にとってはたまったものではない。急いで手袋の布地に捕まり、どうにか難を逃れる。
「も、申し訳ありません」
一転して弱々しい声が漏れた。

幸い彼等に大きな怪我はなく、打ち身はエリザがすぐに治療する。
「それにしても、今回の提案には驚きました」
心底ほっとした声でエリザは言う。
「『エリザ様』なんて呼ばれると考えただけで、なにかこう、むず痒くなってしまいます」
軽く首を振りながら付け足す。緊張が一気に緩んだせいか、別の理由も明かしてしまった。
「ははは。しかし そなたであれば人心は自然と付いてくるであろう」
ラファイセット王も手を挙げて応じる。
「そのときに改めて要請いたすゆえ、受けてくださいますな。『エリザ様』?」
エリザは背中を羽で撫でられたかのように肩をすくめ、身震いする。掌の王達は再び大きく揺さぶられ、街からは笑い声が沸き上がった。


目玉である就任式が省かれてしまったため、王による締めの言葉で披露の儀は閉会となる。貴賓を城まで送った後は、大道芸人たちによる余興の時間だ。

城までの道を開けてもらう間に何気なく空を見上げたエリザは、いつの間にか雲行きが怪しくなっていることに気づいた。耳を澄ますと、遠い雷鳴も聞こえてくる。

これは問題だ。雷は高いところに落ちるから、エリザがまず標的となるだろう。彼女自身はまだしも、掌の王達は無事で済まない。
「これは、まずいかもしれんな」
「そうですね」
王達も危険を察知しているようだ。説明が省けるなら話は早い。
「はい。今からしゃがみますので、一旦私の手から降りて頂きますね」
「うむ、わかった」
あっさり応諾、と思ったら意外な問いを返す王もいた。
「我々は良いのですが、貴女はどうなさるので?」
「えっ? 私、ですか?」
「ええ。傘もありませんし、折角のドレスが台無しでしょう」
どうやら彼等は雨を懸念していたらしい。

エリザは苦笑しつつ、雷の危険を説明する。
「問題は雷なのです。恐らく私に落ちますので、離れて頂きます」
なるほど、といった様子で王達は頷き、ややあって一人が彼女を見上げる。
「風で追い払えぬのか?」
王からの提案に、今度はエリザが頷く。
「ええ、やってみます。折角のドレスですから」
微笑みと共に、彼女はそう付け足した。


王達を下ろしてエリザは沸き立つ雲に対峙する。遠目には夏らしい入道雲だろうが、間近で見るとまるで灰色の怪物だ。自分が百五十倍とい大きさになっているから、景色ではなく怪物に見えるのかもしれない。そんなことを不意に考えてしまう。

エリザが紡ぐ言霊に応じ、彼女の背後から前方に向かう海風が強さを増す。とはいえ、地上で吹いても街の人に迷惑が掛かるだけだ。彼女は更に、風が雲の高さに吹くよう念じる。

しかし風を当たっているにも関わらず雲が押し戻される気配はなく、逆に雲は風を包むように大きくなっている。雷鳴は近づき、稲光さえ見え始める。

これは一体、どういうことなのだろうか。もう一度雲に風をぶつけてみるが、やはり効果は逆に出てしまう。これでは手が出せない。焦りを察してか、足元で見守る人々からも不安そうなざわめきが漏れる。

「これは魔術による風じゃ! 誰かがお主の風に合わせておる!」
鋭い声が雑踏を貫く。発言のほうを見やると、師匠が自分を見つけてくれといわんばかりに両手を大きく振っていた。
「では、どうすれば?」
短く問うと、師匠は腕を組み考え込んでしまう。
(いや、それでは意味が無いでしょう)
口から出そうになった文句を心にとどめ、焦れること数瞬。ローンハイムは再び顔を上げ、いつになく緊張した声で叫ぶ。
「案も時間も無い。岸から離れろ! ここで雷を受けると……」
「はい!」
師匠の言葉が終わる前にエリザは即答し、直ぐに踵を返す。

まさに、その刹那。
ドーン という轟音と共に、閃光の柱がエリザを貫いた。

よろめきかけた体勢を立て直し、エリザは頭を振る。視覚と聴覚は一瞬閉ざされ、頭にはびりびりとした刺激が走り、そして体が熱くなる。
だがすぐに感覚は戻り、痛みも引いてしまう。無傷で手足も普通に動くとなれば余り焦る必要もなさそうだ。エリザは両手でドレスの裾を摘み、早足で沖に進む。続く雷が容赦なく打ち据え、落雷のたび彼女は立ち止まるが、受ける衝撃は徐々に小さくなっている。

港を出たところでエリザは振り返り、そして遥か雲の上から街を見下ろす自分を念じる。視点は今までにない速さで上昇し、わずか二呼吸の後には霧に閉ざされる。頭が雲に入ったと彼女が気づいた直後に、雲内の雷が一斉に彼女を襲った。


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