作者:ゆんぞ 更新:2003-10-17(2009-01-02 修正) [前に戻る] [次を読む] [トップに戻る]
術の影響が及ぶのを避けるため、エリザは師匠を掌に載せて 町から西に移動する。四半里ほど歩くと森の中でも少し開けた場所に着いたので 彼女は腰を下ろし、立てた膝の上に師を降した。
「で、どんな術をお見せすれば良いんでしょうか?」
治癒術は見せたはずだから、今の奇妙に鋭い感覚のことを言ってるのだろうか。それとも操霊の類か。エリザはそう思って尋ねたが、師の反応はその予想から大きく外れていた。
「そうじゃな。ではとりあえず、八十丈(二四〇メートル)という大きさを見せて貰おうか」
「えっ?!」
師の突飛な要求に、エリザはつい声を立ててしまう。
「良いんですか? 凄く、怖いと思いますけど」
師を正面から見据え、尋ねる。間近から焦点を合わせると それだけで大概の人は身を引くものだが、この老人は視線の圧力を平然と受け流している。
「だから良いのぢゃよ」
むしろ楽しそうな声で答えるローンハイム。
「この齢になるとのお、怖いのも道楽じゃで」
いかにも好奇心衰えぬ師匠らしい答えぶりに、エリザも釣られるようについ苦笑いしてしまう。いざ百五十倍になった自分を目にすれば狼狽えるかもしれないが、それはそれで見てみたい気がしてきた。
「じゃあ降りて頂きますけど、そこからは絶対に動かないで下さいね」
掌を膝に寄せながらエリザは言うが、その提案にローンハイムは両腕を振り上げて抗う。
「ま、まてっ!! 馬鹿を言うなっ!」
「?!」
突然の激昂に、エリザは目を丸くして固まってしまった。怒られている理由が解らないために何も言えず、膝上の師を注意深く凝視することしかできない。そんな面食った弟子に向かって、師は更に畳みかける。
「儂を降ろしてどうする。掌に乗せたまま大きくならねば意味が無いじゃろうが!」
「へっ?」
怒っている理由が解っても、その無謀さ加減には何も言い返せない。彼女が口を開くまでには、優に二三度瞬きする位の間が空いていた。
「そ、それって……本気ですか?」
うわずった声で慌てて反駁を始めるエリザ。
「百五十倍って簡単に言いますけど、本当に大きいんですよ。だって、この指先でさえ……」
そう言いながら 師から見て太さ二尺はある人差し指を師の目の前に置き、次いで親指を三寸ばかり上に留める。ローンハイムにとっては家の天井よりも高い位置だ。
「これくらいの太さになるんですから」
ここまで大きくなると些細な動きえも周りに凄い影響を与えてしまうし、小さな人を傷つけずにいられる自信がない。そうエリザは主張したが、ローンハイムまた頑として譲らない。
曰く、掌に載せるだけで構わないし、万一落ちたとしても風の加護を賜われば 死ぬことは無い。そして百五十倍にまで大きくなれることが人々に伝われば、いずれその大きさで動かざるを得ない状況が必ず起こる。だから今のうちに人を傷つけることなく扱えるようになっておかなければならない。
そこまで言われてしまうと、エリザも折れる他になかった。
「解りました。じゃあ、左掌の真ん中で寝そべってください」
まだ心の底では承諾しきれないのか、エリザは低い声で促す。
言われた通りにローンハイムが掌の真ん中まで来て横になるのを確認すると、彼女は片膝を立ててゆっくりと立ち上がる。そして右手の下に左手を沿え、正面やや上を向いて大きく息を吸い、そして吐く。ほんの些細な動きが恐らく師の生死を左右するだろうから、失敗は絶対に許されない。そう思うと緊張で手が震えてしまい、ついエリザは心配そうに掌上の師を見てしまう。だが掌上の小さな老人は体中の力が抜けたような緩んだ姿勢で横たわっており、助けを求める視線に気づいても、心配するなとでも言うかのように手をゆっくりと振るのみだ。
(まったく……貴方が一番怖いはずなのに)
自分の調子を崩さない師匠の様子に少しだけ呆れつつも、エリザは微笑で応じる。そうすることで体から余分な力が抜け 震えも収まったので、彼女は手が動かないように両脇を締め、掌を胸の方に寄せる。なんとなく恥ずかしいし 掌を見るときに首や顎が苦しくなりそうだが、背に腹は代えられない。
「じゃあ、いきますよ」
小声でそう伝えてからエリザは目を閉じ、自分の体が大きくなった場面を想像しはじめる。まず思い出したのが、昨日 間違って大きくなったときのことだ。二階建ての離れ小屋がすっぽり手の中に収まる位に、そして前に居た二人は炊いた穀粒くらいにまで小さくなっていた。あれでおよそ百五十倍、とすればその倍になれば家を摘み上げる感じになるのだろうか。そういえば昨日だけでなく訓練の際も 雲を手で散らす自分の姿を想像したが、それくらいの大きさになれば 山越しに故郷の町を見られるかもしれない……。
そこまで考えたところで目を開けると、彼女の前方には絨毯のように緑の森が広がっていた。その遥か向こうにある青い山と空も含めて、前に試みた時と同じような風景だ。左を向くと数間先にバラムの街が見える。エリザにとって街は直径およそ一尋の大きさで、小さいながらも中にある建物の識別は十分に付く。体ごと向き直してよく見てみると、市壁の上に人が立っているのが解る。多分さっきまで話していた人達だろう。
(みんな、唖然としているんだろうなあ……)
市壁の人達だけでなく街の人全員が驚き、恐れているのだろう。エリザは街に向かって微笑み掛け、右手を軽く振ってみる。多少の遅れを伴いながらも三人ほどが手を振り返してくれた。
この反応からすれば街の方はまだ大丈夫だろうが、それもこれも いい歳して子供みたいなことを言ってる師匠のせいだ。そう思ってエリザが胸元を見下ろすと、左掌の上には長さ三分ほどの小さな影がぽつんと落ちていた。それが寝そべっている師匠だと判るまでに数瞬の間を要したが、良く見ればその表情――口をぽかんと開け放しているのがわかる。
(あ、驚いてる)
流石の師匠もこれには驚嘆したようだ。師が無事だったことに加えて 滅多に見せないその表情に、エリザの顔にもつい悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「どうしました?」
エリザは敢えて余り声を抑えずに問う。間近で聞けばそれこそ雷鳴のように轟く声に、ローンハイムはびくっと体を痙攣させる。それでどうにか我に返ったらしく、彼はぶるぶると頭を振ると拳を上げて怒鳴る。
「ば、ばっかもん! 声が大き過ぎるすわい!」
大声を張り上げてもなお、エリザにとっては辛うじて聞こえるくらいの小さな声だった。だが声そのものは小さくても、言いたいことは不思議と伝わってくる。
「ごめんなさい、まだ慣れていないんです」
少しだけ申し訳無さそうに、エリザは可能な限り抑えた声で答える。だが それでもこの至近距離では相当堪えるようで、彼女の科白が終わるまでローンハイムは耳を塞いだまま目を閉じ、強ばった表情を浮かべている。
「いいから声を出すな。心話に切り替えるのじゃ」
師の命にエリザは「はい」と応えそうになり、慌てて息を飲む。その代わりにゆっくりと頷くと彼女は目を閉じ、掌にいる小さな師匠に意識を集中させて命の温もりを感じとる。確かな存在を認識できたところで、彼女は心の声で話しかける。
(あの……どうでしょう、聞こえてます?)
(おう、十分すぎるくらいじゃ)
肉声に似た声色が即座に返ってきた。その声が直接聞くより大きくはっきりと聞こえたので、エリザはつい目を開く。
「聞こえたか?」
問う老師を見つめたまま、エリザは無言で頷く。そして今度は目を開いたまま心の声で話しかける。
(声を聞くよりはっきり聞こえました)
師はこんなに小さいのに、いや自分がこんなに大きいのに、意志の疎通は全く問題なく行える。そのことが彼女にとっては不思議であり、また相手と自分が同じ人であることを よりはっきりと認識出来るのが嬉しくもあった。
(ん? どうしたのじゃ?)
いつの間にかにこにこ笑っているエリザを不審に思ったのか、ローンハイムが尋ねる。
(え? ええ……)
思わぬ問いにもエリザは微笑みを崩さず答えた。
(これだけ大きさが違っても 同じ人として心を通わせられるのが、嬉しいんです)
「ああ、確かにのお……」
感慨深げな肉声が仰ぎ見るローンハイムの口から漏れる。まともに目が合ったことで、彼は真正面からエリザの大きさと向かい合っていた。遥かな高みから彼を伺う目線と視界一杯に広がる優しい笑みは、まるで全天が見守り微笑んでいるようだ。地に目を転じれば、座っている白い地面には高さ五分程度の畝が二寸の間隔で走っており、ちょっとした広場くらいの広さがある。この百五十倍という大きさが数字だけでは表せないものを秘めていることを、彼は感じ取っていた。言うなれば一人の人間ではなく景色と相対しているかのような、そんな錯覚さえ受けてしまうのだ。あくまでも一介の治癒術師でありたいと願う彼女自身は そんな畏怖など絶対に受け入れないだろうが……。
(あ、あの……余りじっと見られると、恥ずかしいんですけど……)
(ん?)
弟子が遠慮がちに呼び止める声でローンハイムは我に返る。焦点が合ってはじめて分かったが、そのとき彼の視界に入っていたのは 治癒術師の紋章が描かれたタペストリーだった。その布地を押し出して曲面を作り出す膨らみもまた、相当な大きさだった。
(あ……いや、すまん)
考え事をしているうちに正面を凝視していたらしい。ローンハイムは柄にもなく顔を赤らめながら応えた。
(しかし、あれじゃな。ここまで心話が容易いのも意外じゃったぞ)
ばつが悪くなったのか、ローンハイムは早口にそう言って話題を切り替える。
(え? ああ、確かにそうですよね)
指摘されて始めて気づいたことだが、確かに練度を考えれば師の言う通りだ。しかし彼女自身は巨大化している時に様々な感覚が鋭くなっていることを日々感じていたので、心話もその一つと思えば余り不自然には感じない。
(霊的に何か有るのじゃろうな。今なら操霊術も容易いやも知れぬぞ)
今の鋭敏な感覚と結びつけるエリザの推察に、ローンハイムも頷きながら返す。その一方で、彼は契約だけでも修めていた幸運に思い至っていた。この弟子には赴任前に操霊術の基礎まで修めさせる予定だったが、前任の癒し手が倒れたことで半年も繰り上げられた経緯がある。それでもリーデアルドへの道中に付き添って 初歩の『万霊との契約』だけは執り行ったが、御霊に語りかける言霊の組み立て方は殆ど教えていない。
(それで、結局あれから言霊を用いたことは?)
(え、えっと……)
突然の質問にエリザは口ごもる。彼女に使える操霊術といえば、生命の力を魔力に変えることで大きな力を得る『術拡張』だけで、これも出来る限り術者の付き添いなしには使うなと厳命されていた。言われながらも彼女はこの一年で瀕死の患者を前に何度も禁を破ったが、それでも殆どの場合において術は患者を救うに至らず、幾つもの命が自分の腕の中で沈んでいった。その時の記憶、何とも言えない虚無感と罪悪感がよみがえり 彼女の胸を締める……。
(まあ、よい)
師匠の優しい声が唐突に響き、エリザは閉じていた目をはっと開けて 師匠を見やる。その視界が薄く曇っていることに今更ながら彼女は気づいた。
(この一年は辛かったじゃろう。癒し手は皆通る道じゃが、良く耐えたの)
(……)
暖かい言葉が心の奥に染み入り、代わりに何故か涙が込み上げてくる。涙が溢れそうになったので慌ててエリザは右手で両の目を拭い、ぐすっと音を立てて鼻を啜る。それから震える深呼吸を何度か繰り返すことでどうにか落ち着いてきたので、彼女は師匠に視線を投じて礼を言う。
(有り難うございます……あ、あの、ごめんなさい)
鼻を啜った時の音のせいだろうか、師匠は頭を垂れて耳を塞いでいた。だが、それでも彼は反応して頷く。
(で、念のため聞くのじゃが……『術拡張』以外は使っておらぬな?)
(えっ?)
聞かれたエリザは唐突に、反魂を試みたことを思い出す。反魂の術は『奇跡にして禁忌』、使うことなどありえないと師からは説明されていた。それ以上の知識が無い中での試行であり、『下手打つと呼ばれる』とか『魂に罪を刻む』といった司祭の言動も併せて考えると非常に危険な行動だったのだろう。
(何かやったのかの? まあ良いから、言うてみぃ)
弟子の戸惑いを訝しんだローンハイムは、苛立ちながらも それを出来るだけ隠しつつゆっくりと問う。そんな師の口調に、迷っていたエリザも視線を師に戻し、そして数瞬の逡巡の末に思い切って告白した。
(反魂を、使いました)
絞り出すようにそう言ったとき、小さな師匠の体全体に力が入るのが彼女にも解った。恐らく先に渡されていた報告にも書かれてなかったのだろう、押し黙ったまま僅かに俯く師匠。その中には怒りとも困惑とも取れる感情が渦巻いている。暫しの気不味い沈黙を経て、ローンハイムは ゆっくりした口調で尋ねた。
(この大きさになってからか?)
(あ、はい。一度だけ試みまして……)
問われるのを待っていたかのように、エリザは右手の手振りを交えつつ事の経緯を早口で説明する。知識の無い中で試みたこと、司祭の亡霊に捕まりそうになったこと、それを振り払ったために術の行使には至っていないこと……。心話だから音量こそ普通なのだが、話す勢いと身振り手振りが起こす揺れに翻弄されたローンハイムは時折相づちを打つことくらいしかできない。
(というわけなんです。ですので……)
一通り説明が終わっても更に言葉を継ごうとするエリザに、ローンハイムは手を上げて素早く割り入る。
「解った、解ったから落ち着け!」
(え……あっ、はい)
やっと我に帰ったのか、エリザは短い返事で素直に応じた。凝視していた視線を外し、深呼吸で息を整え、動かしていた右手を再び左掌に沿えなおずる。それでやっと落ち着いたローンハイムも腰を降ろし、深い溜息と共に首を垂れる。
(このまま喋らせておくと酔ってしまいそうじゃ)
軽くふらついて居る様子を見せながらも、師の愚痴る声は妙に軽い。
(ご、ごめんなさい)
エリザは相変わらず申し訳無さそうに謝るが、ローンハイムは特に気にする様子もなく「まあよい」と返す。山のような巨躯を声だけで制御できるという事実が、彼にとっては少なからず奇妙かつ愉快だったからである。
多少休んでからローンハイムは 自分を心配そうに見下ろしている弟子を見上げ、諭すようなゆっくりとした口調で説明を始める。
(蘇生ではなく反魂がそう呼ばれる理由について、話しておかねばならんの)
少し間を置いてエリザは注意深く頷く。それを見て師は説明を始める。
魂が繋がった状態での蘇生は単に高度な治癒術だが、更に魂を呼び戻す反魂は『奇跡にして禁忌』と扱われる。その理由は大きく三つ。まず高度な技術と膨大な魔力が必要であり、失敗すると術者自身の魂が黄泉に落ちるため。『下手打つと呼ばれる』に相当する術自身の問題だ。次に死地から魂を呼び戻す反魂は、厳正であるべき生死の境を曖昧にするため。これは『魂に罪を刻む』に相当する理(ことわり)の問題である。
そして最後に、人の欲望は常に現実の一歩先にあり、反魂が可能という事実は更なる欲を招くため。現に文献から反魂の詳細が発見されただけで治世は何度も乱れており、現代においてさえ文献から反魂の事実を葬り、通常の蘇生に書き換えるための司書が存在する。
そこまで話して、ローンハイムは上を仰ぎ見る。彼を見下ろすエリザの眼差しは真剣そのもので、話に夢中で忘れていたのか 今になって続けざまに何度も瞬きする。
(そんな理由があったんですね。私、全然知りませんでした)
エリザは感慨深げな声を漏らす。自分の行使しようとした術が巡り巡って国を乱すなどとは露ほどにも思っていなかったからだ。
(うむ。奇跡が奇跡でなくなるというのは、本当に恐ろしいことなのじゃ。特に生死の境は厳正でなくてはならぬ)
ローンハイムは再びゆっくりとした口調で言う。
(主が一介の治癒術師で居続けるためにも、この一線は越えてはならぬぞ。よいな?)
更に彼は、反魂を行使した事実を漏らさないこと、治癒術による蘇生を施したらその度に反魂と勘違いされないよう説明が必要であることを注意する。念入りに釘を刺され、エリザは頷くしかなかった。
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