地球の癒しかた
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地球。

太陽系惑星の中で最も多くの生命体が存在していると言われる星。

雲の白、大洋の青、そして大地の緑が織りなす美しい調和は、まさにその事実を表しているように見える。

そしてこの惑星に生息している人間と呼ばれる種族は、地球を実質的に支配している存在であった。

500万年以前より地球に誕生し、道具や火などを用い、家を建て畑を耕すことによってその縄張りを広げていった。

やがて個体数が莫大に増えると、草を刈って作られていた道は黒い舗装路で整えられ、天にまで伸びるような高楼が次々と生み出されていった。

人類は他の動物より高度な知能を以って、地球の環境さえ簡単に変えてしまうことができるほどの力を有していた。



しかしある時、声明で満ち溢れる地球に重大な問題が発生した。

それは人類の間で感染している、疾病の大流行であった。

人類が疾病に脅かされること自体は、これまでの歴史上それほど珍しいことではない。

しかし今までの病原菌とは段違いの感染力を持ったウイルスは次から次へと人類を蝕み、必死の抵抗も空しく全世界へと広まってしまっていた。

このままでは、人類の滅亡でさえ遠い未来の話ではなくなってしまう程であった。

人々は絶望し、またある人々はどうかこの悲劇を鎮めてくれと日々祈り続けた。

願わくはこの世界全体を優しく包み込んでくれるそう、女神のような……。


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「こんにちは。なんだか地球が大変なことになっていると聞いて、治療に参りました」

奥ゆかしい声と共に、宇宙の果てから長身の治癒術師エリザが舞い降りた。

彼女は優しく微笑みながら、ゆっくりと青い惑星へと近づいてゆく。

極限状態にまで陥るまで追い詰められた彼らの願いは、とうとう通じたのである。

腰まで伸びる艶やかな黒髪を漂わせながら、ふわふわと宇宙空間を泳いでいくエリザ。

落ち着いた深青の衣装を身に纏い、白い十字が映えるナースキャップを頭に載せている。

そして見た者を優しく包み込んでくれるような、丸くころんとした眼。

地球を片手で握りしめてしまえる程の圧倒的なサイズ差でありながら、その風格はとても穏やかであった。



さて、超巨大な治癒師として地球と対峙したエリザ。

人類が拠り所としていた偉大なる地球が、今や彼女にとって飴玉サイズでしかない。

もちろん地球全体を治療するには、相当の躯体が必要ではある。

しかし地球より何十倍も巨大な彼女の姿は、女神というより地球を弄ぶ者と言うのが相応しいかもしれない。

「あら、とても綺麗……」

エリザはぽっかりと浮いている地球を、両手を頬に当ててにこやかに眺める。

こんな美しい星で、本当に危機的な疫病が流行っているのだろうか。

初めてその姿を見て疑問に思うエリザだったが、何においても見た目だけで判断するのは良い事ではない。

事実、今回はこの星からSOSのメッセージを受けてやって来たのだ。早いうちに治療を始めないと、どんどん状況は悪化していくだろう。



「それでは、ただいまから治療を開始しますね」

そっと、唇を近づけた。

「あーん……」

唇どうしが離され、彼女の赤く濡れた洞窟が顕になる。

ぽかんと開けられた彼女の口は、小さい地球を全て丸呑みできるほど大きかった。

ゆっくりと、横から顔を動かして地球を飲み込んでゆく。

大地が、海が、太陽からの光を失って暗闇に包まれる。

陽の差していた地上は突然真っ暗になると同時に、独特の臭いが鼻につく湿った空気に覆われた。

あっという間に、エリザがほんの少し顔を動かすだけで地球は彼女の口の中に吸い込まれてしまった。

またもゆっくりと口を閉じれば、完全に地球の姿は彼女の口外からは見えなくなった。

エリザの口の中で光を失った地球。今や世界中のどの場所にも昼間は存在しない。

東京では展望台から眺める風景が突然夜景へと変わり、ニューヨークでは夜空で輝いていた星々が一瞬で消え去った。

惑星全体が暗闇に包まれ、ジメっとした臭気のある空気に包まれ、人類はパニックに陥った。

今までの出来事はエリザが地球を口に含んだことに過ぎないのだが、エリザの数億分の一ほどのちっぽけな存在では、天変地異とも呼べる大異変であった。

地球を一口に飲み込んだエリザ。真一文字に閉ざされた唇が微かに動かされた。

すると大巨人の口の中で、グシュグシュと何かが湧き上がってきたような音がした。



赤い肉壁に囲まれた暗闇の洞窟の中で、白い泡状の液体が次々に生み出されていく。

それが四方八方から這いより、徐々に地球との距離を縮めてゆく。

グシュ……グシュグチュ……チュッヂュルッ………

正体不明の魔物が動き出すような、不気味な音が口内に響き渡る。

口内の湿度は、息が苦しくなるほどに上昇してとても生物が住み続けていられるような環境ではない。

治療の準備は着々と進んでいた。だが、人類は安心するどころか不安が募るばかりだ。

確実に何かがおかしい。本当に自分たちを助けてくれるのだろうか。

規格外ともいえる湿度の中、冷や汗が額を幾筋も走った。

そしていよいよ地球に、彼女のとっておきの治療薬が降り注ぐこととなる。



…ジュルッ……グジュルヂュッ……グチュグチュ………

治癒術師の唾液が、巨大な質量を持って世界の各都市に送り込まれた。

人類の英知を集めて作られた構造物が、街ごと唾液で流されて粉々にされてゆく。

高層ビルの高さを優に超える唾液の波は、巨大な破壊力を持って中枢部へ襲い掛かる。

猛烈な勢いで流れる粘液の力を受けてビルが真っ二つに割れ、あるいはそのまま流されて波の間で押し潰される。

逃げる隙も与えられず、惑星の主たる住民が迫りくる粘液に翻弄され、わけも分からぬまま巨大な渦に巻き込まれてしまった。

真っ暗闇の地球に襲い掛かる悲劇。よもやこれがたった一人の少女の口の中で引き起こされているなどと誰が信じるであろうか。

海抜の低い島国は既に海の中、アフリカの広大な砂漠は大量の水を得て肥沃な大地へと変貌していった。

そんな中、エリザは口の中の惑星を自らの液体で覆いつつ、その味を確かめてみる。



「んっ……ちょっと、しょっぱいですね……」

舌の上で感じられる塩味。

地表の7割を占める海洋の風味が、口の中いっぱいに広がった。

エリザの体は、この刺激を見逃すことはなかった。

口の中の塩味を中和させようと、さらに大量の唾液を分泌させる。

そしてそれは否応なしに地表に注がれてゆき、みるみるうちに地球を癒してゆく。

人口百万を超える巨大都市でも、広大な農地が広がる田園都市でも、エリザの唾液の波で全て洗い流されてしまう。

数百年に年月をかけてつくり上げられた人類の住処が、それをはるかに上回る偉大な存在によってすべてリセットされてゆく。

高層ビルが次々となぎ倒され、吊り橋は川の水ごと巨大な渦に飲み込まれ、全てバラバラになって砕け散る。

世界有数の都市が次から次へと姿を消し、開拓される前の広大な大地に取って代わった。

地球上の全ての場所で逃げ場所を失った人間達。

他の惑星に逃げる手段もままならないまま、一秒ごとに数万人単位の命が尽き果ててゆく。



「はぁん……」

地表で未曽有の出来事が起きているとも知らず、エリザはただ一心に地球を癒し続ける。

口の中で漂い続ける惑星を下方から舌で優しく覆い、大量の唾液で病原菌を一掃する。

唇の間から溢れ出る唾液を片手で受け止めながら、片目を閉じて少し色っぽく口を動かして。

そして治療は、いよいよ最後の段階に入った。

クチュクチュクチュクチュグチュグチュグチュ……………………

既に満身創痍となった人類の街に、とどめと言わんばかりの量の唾液を浴びせる。

あっと言う間にエリザの唾液で覆われてしまった地球。彼女の唾液から逃れられる場所などどこにも無い。

波と波が重なり合い、より大きなうねりを伴って大地へ流れ込む。

都市の痕跡さえ残すことを許さず、すべて神聖な液体で砕き、溶かして、飲み込む。

ゴクリ………

全地球の人々の痕跡が濃縮された粘液が、治癒師の喉を鳴らした。

鈍い音が響いた後、口の動きが止まってしばらくの間静寂が続いた。

あらゆる物が飲み込まれた腹部を左手で撫で終えると、エリザの唇が、再び開いた。

光を取り戻した地球。ゆっくりと巨大な洞窟が後退りし、きらきら光る被膜を持った球体が姿を現した。

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エリザの慈悲深い治療によって、地球上の疾病は解消された。

何億という命と代償に、地球が患っていた病気の要因は全て消え去ったである。

人間という種族が大陸の至る所に造り出した街は治癒師の消化液で流され、人類が住んでいた証は何一つ残っていない。

かつて、地球上の人類はこう残していた。人間は、地球の皮膚における病気の一種であると。

人間の疾病の流行は確かにあったが、それ以上に地球が抱えていた病はより深刻だったのだ。

エリザが治癒していたのは地球上に存在するちっぽけな人間に非ず、その拠り所としていた地球自体だったのである。


エリザは満足そうに自らの唾液で包まれた地球を眺めると、優しく微笑んで、踵を返しまた宇宙の果てへ旅立っていった。

(完)