雲に触れるもの(1)

優しいギガ娘萌え~という趣旨の HIKどんの言葉に感動し、「総てを癒すもの」の外伝として寄稿した内容です。

作者の趣味により尺貫法を採用しています。一丈は3m、一分は3mm。

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どこかで見た光景が、エリザの目の前に広がっていた。

上には色の濃い空が広がり、腰の高さに幾つか綿の固まりが浮かんでいる。その隙間からは青緑色の毛羽立った布地が凸凹に敷き詰められている。隅から隅まで不自然だが、なぜこうなっているのかはすぐに察しがついた。
エリザは項垂れ、長い溜息を漏らす。暖かく湿った吐息は胸の高さで白くなり、新しい雲となって流れる。自分の大きさを否応なく認識させる現象に彼女の気は滅入るばかりだ。それでも彼女は記憶を辿りながら周囲を見渡してみる。前方は雲と淡い大地が見えるだけだが、左手のほうに椀ほどの小さな街が雲に半ば埋もれる形で浮かんでいる。

この街の姿が彼女の記憶を更に呼び覚ます。確かこれは夢として見た光景ではなかったか。エリザは街を手に持ってゆっくり近づけ、目を凝らして中の様子を伺ってみる。街の家々はどれもこれも胡麻粒程度の大きさでしかなく、その間を縫う道も羽ペンで書いた線のようだ。最も大きい建物は中央広場の横にある市庁舎のようだが、それでやっと二分(六ミリメートル)ほどか。
(これは、きっと夢よね……)
冗談のような小ささ、というより自分の大きさに加えて、以前見た夢との一致。

本当に夢の中ならば、好き勝手にやっても文句は無いだろう。
エリザは右手の人差し指を延ばし、街の上にかざしてみる。白い指は街のどの建物とも比べ物にならない大きさで、街に写った影は区画二つ三つほどあるだろうか。つまり彼女が指を地面にそっと乗せるだけで、それだけの範囲が潰れてしまうことを意味する。更にそのまま線を引けば、おそらく街の三分の一くらいは完全に更地となるだろう。そのうえにある者は全て、建物も、人馬も、何もかも……

そこまで考えて、エリザはふと我に返る。
夢とは言え余りにも恐ろしい想像だった。もし考えた内容を街の小さな人々が聞いたら怖がることだろう。

そう思いつつ意識を向けた彼女の耳に入ったのは、幾重にも重なった嗚咽だった。狂人が漏らすようなそれは言葉の体さえ成しておらず、想像以上の反応にエリザは悪寒さえ覚える。辛うじて聞き分けられる言葉らしき声も、理不尽をなじる罵声や必死で慈悲を訴える嘆声ばかりだ。

まさかここまで恐怖を与えてしまったとは。驚きから立ち直ったエリザは直ぐにリューベックの街を胸の間に抱き寄せる。街の周囲を指と胸で、上空を顔で完全に占領してしまったために街からの恐怖は更に増すが、それでもエリザは目を閉じて念じる。
(ごめんなさい、こんなに怖がらせてしまって)
エリザは街から沸き上がる何百という恐怖を受け止め、ひたすら心話で謝罪と宥めの声を送り続ける。
その一方で、彼女は激しい後悔の念に捕らわれていた。なぜ、夢だから街を潰しても構わないと思ったのだろうか。これだけ小さくて脆い相手に なぜ残酷な想像をぶつけてしまったのだろうか。大きさが違っても同じ『ひと』であると、他ならぬ彼女自身がいつも言っているのに。

暫く時間を置くうちに 最初は聞き分けることすら出来なかった恐怖の声も少しずつ収まってきたが、代わりに上がってきたのは 彼女が町に指を翳してから町を抱き締めるまでの様子だった。曰く、
(巨大な指が空を覆い、黄昏のように暗くなった)
(遙かな高みで動く指は、どの建物を潰すか悩んでいるように見えた)
(町の半分を囲んだ指はどの建物より大きく、指紋の凹凸でさえ畑の畝のように見えた)
エリザには自分の姿が街の人にどう見えたか解らないが、その言葉で本当に恐ろしい思いをしたことだけは解る。やはり彼女は街を抱きしめながら謝るしかなかった。
(自分の大きさを忘れて、つい変なことを考えてしまったんです。ごめんなさい)


そうやってどれだけの時間が経ったか。様々な声も収まり、人々は徐々に平穏を取り戻しつつあった。エリザもここへきてやっと一息つき、抱きしめていた街を雲にそっと預ける。そして彼女は夢の記憶を手繰りつつ改めて周囲を見渡してみる。確か以前見た夢では、街から何人か飛び降りて暢気にも雲で遊んでいたはずだ。雲に乗りたいと言った少年と、相棒のイーゼムと……

再び悪寒が走る。もし彼らが街の外なら、知らない間に手をぶつけてしまったかもしれない。さっきの溜息で吹き飛ばしてしまったかもしれない。焦りつつもゆっくり上半身を屈め、前方の雲を凝視する。
(あの。誰か、誰か居ませんか?)

心話で語りかけつつ白や灰色の雲をじっと見るが、返事はなく人影も見あたらない。彼女は次に身を起こし、さっきの街を再び手元に引き寄せる。
(えっと、さっきここから飛び降りた人が居たと思うんですが、どなたか見た方はいらっしゃいませんか?)
彼女の問いに対して返ってきたのは、街を急に動かされたことに対する抗議の声だった。幸いにも特に被害があるわけではなさそうだが、頼むから落ち着いてくれと懇願する声は切実だ。
(いや、あ……ごめんなさい。焦っていましたので)
またも頭を下げるエリザ。彼女にとってのちょっとした焦りも、彼らにとっては致命的な意味を持ちうる。一旦目を閉じ、天を仰いで深く息をつく。そして街に向き直り、祈るように手を組み合わせて再び問いかける。
(街から降りた人、もし居たら返事してください。お願いします)

(こっちだよ、こっち!)
今度は直ぐに返事が来た。左前方から聞き慣れた声だ。即座にエリザは向き直り、眼を凝らしてみる。目の前は雲ばかりで人影など見あたらないが、雲に埋もれた小さな命を心の眼で捉えることができた。
(さっきから呼んでたんだぞ)
(ご、ごめんなさい。焦っていたもので)
イーゼムに諫められ、軽く頭を下げる。小さな声を聞くには平常心が必須である。
(ところで、えっと、他の人も居ますか?)
(ああ、俺を含めて五人か、全員揃ってる)
的確なイーゼムの返答を聞いて、エリザもほっと胸をなで下ろす。

その油断が命取りだった。思わず彼女が吐いた安堵の息は白い激流となり、目前の雲に襲いかかる。咄嗟に掌で遮ろうとするが、既に手遅れだ。
やはりというか、少し遅れて雲の中から小さな悲鳴が聞こえてきた。
(ご、ごめんなさい)
すぐにでも手助けしたいのだが、これだけ大きいと迂闊に手を出せない。エリザは慚愧に目を閉じることしかできなかった。

悲鳴が止むのを待ってから、エリザはおずおずと問い掛ける。
(あ、あの。大丈夫でしょうか?)
しかし返事は無い。雲を掻き分けて探そうかとも思ったが、それは危険だ。仕方が無いので、間を置いて彼女はもう一度尋ねる。
(大丈夫ですか? 私の声が聞こえますか?)
(ああ、大丈夫だよ!)
返事はあった。疲れているようにも 呆れているようにも聞こえる声色だが、とりあえず無事ではあるようだ。エリザは彼らに息が当たらないように、再び胸をなでおろす。
(しかし、息が当たっただけでこれってのも お互い大変だなぁ)
(うう、すみません)
この台詞はもう何度目だろうか。そう心のどこかで思いつつも、謝るしかない。
(あと、かなり流されたのかな。こっちからそっちは見えないんだが、そっちはどうだ?)
(あ、はい)
前に居た位置と自分の吐息を勘案し、エリザはそれと思しき辺りに眼を凝らしてみる。雲に埋もれた影を目で捉えるのは無理だが、雑念さえ飛ばせば 心の眼で命の灯を捕らえることができる。
(見つかりました。えーと)
飛ばされた距離は、彼女の尺度で二寸余りといったところか。それを伝えようとする前にイーゼムから指示が飛ぶ。
(じゃあ、とりあえず上に向かおう。こっちが上で良いんだよな?)
(え? あ……)
(ああ、そこまで見えないか、悪い)
戸惑うエリザをよそに会話を打ち切り、彼らは雲を掻き分けて動き始める。

そんな様子をしばらく見守っていたが、エリザから見ると動く気配がほとんど無い。雲の厚さは三~四寸ほどだが、この遅さでは登りきる前に日が暮れてしまうかも……
いや、笑い事ではない。日が暮れれば彼女は魔力を失い、リューベックは墜落する!
(少し、動かないでいてくださいね)
そう伝えてエリザは雲の中へ掌を入れ、上辺をそっと掃き始める。手が彼等に当たらないように、また大きな風を起こさないように掃き出しは慎重に行われるが、それでも何度か掃くうちに雲は徐々に薄くなり、人影がよりはっきりと見えてくる。

次にエリザは人影の両脇に掌を差し入れる。しかし雲のせいで相手までの正確な距離が判らないため、どれだけの深さを掬うべきか判断できない。横から雲の中を見通すのも難しそうだ。
(どうした?)
動きを止めたエリザを訝しく思ったのか、イーゼムから疑問の声が飛ぶ。
(あ、はい。皆さんを掬い上げたいんですけど、ちょっと具合が……)
歯切れの悪い返答に対し、今度は苦笑交じりの声が飛ぶ。
(具合って何だ?)
(えっと、深さというか、距離がちょっと判り辛くて)
そこまで言って、エリザは ふとあることに気づいた。
(あ、でも深すぎて困ることは無いんですよね)
そうと決まれば話は早い。彼女は更に指三本分ほど掌を沈め、両の掌を匙のようにすぼめる。
だがそこで微かな どよめきが耳に入り、反射的にエリザは手を止めた。焦りは禁物だ。なにせ指先だけで城をも凌駕するのだから。
(これから両手を合わせて、皆さんを掬い上げます)
ゆっくりとした口調で手順を説明しつつ、わずかに両手の感覚を狭める。
(もしこの手が当たるようでしたら、直ぐに言ってください。いいですね?)
(あ、ああ)
イーゼムの声は生返事そのもので、どうにも心許ない。今すぐ動いて良いものかどうか逡巡するエリザだったが、不意に少年から声が出る。
(これ、手なんだ。おっきい……)
その声色は感嘆のみで構成され、恐怖など微塵も感じられない。彼等が脅えていたと思っていたのが勘違いだと解り、エリザの体から一気に力が抜けてしまう。考えてみれば率先して雲に飛び込むような連中なのだから、そうそう動じるわけはない。
(そう。大きいから注意してほしいの。いい?)
苦笑混じりにエリザは念を押す。

誘導に応じてゆっくり動いた両掌は最後に合わさることで巨大な椀となり、雲中の五人を捕らえた。やっとエリザにも安堵の笑みが戻る。
(じゃあ、持ち上げますよ)
(ああ)
いまだに生返事だが、それは掌の大きさに感じ入っているからだろう。特に構うことなく、エリザは慎重に両掌を持ち上げる。
掌が近づくにつれ人影も少しずつ濃くなるのだが、眼前まで来ても黒い点に四肢らしき凹凸が見える程度だ。手足の大まかな動きを察知するのがやっとで、細かい仕草や表情など伺えるはずもない。もちろん触れることもままならず、彼等の存在を感じ取るすべは命の灯と心話の声だけ。つまり魔術無しでは何も通じないということに……
(おい、どうした?!)
(!?)
イーゼムの声で、はっとエリザは我に返る。だがその直後に聞こえたのは彼の悲鳴だ。
(どど、どうしたんですか?)
焦って尋ねつつもエリザは掌中の小さな命を見通す。輝きは五つのまま、つまり大きな問題はなさそうだ。
(大丈夫ですか?)
少し間を置いて再度尋ねると、今度は声が返ってくる。
(いやー、揺れた揺れた。びっくりしたぜ)
普段の ややおどけた口調そのままだ。
(驚いたのは私もですよ。一体何をしていたんですか?)
(何をって、呼んでたんだよ)
(呼んでた?)
(ああ、お前の手に触れてな)
その言葉でようやく彼の意図を理解し、エリザは大きく目を見開く。
わざわざ手に触れていたのは、心話を届きやすくするため。だから彼の声には力があり、寂しさに沈む心を引き上げてくれた。
(ごめんなさい、助けてくれたんですね。なのに私は……)
息を呑んだ拍子に掌を揺らし、恩人を突き飛ばした。更に言えば、そもそもの原因も相手の顔が見えないから孤独だという思い込みではないか。
(そう気にするな。寂しいって言いたくなるのも、まあ何となくだけど解るから)
(えっ?)
寂しいと思ったのは事実だが、心話では伝えて居ないはずだ。だが彼女の驚く意図も察したのか、イーゼムはすぐに説明を加える。
(え? って、あれだけ寂しそうにしてて何言ってんだよ)
エリザの驚きが余りにも的外れだったのか、他の連中まで囃し立てる。
(目は口ほどに物を言うって、いうよねえ)
(ましてやこの大きさだぜ)
(目だけで広場くらいあるんじゃないか)
かなりな言い草に対しても、全部当たっているから言い返せない。しかし釈然としないのも事実だ。
(でも、それって不公平だと思いませんか?)
相手からはどんな細かい仕草も完全に捉えられるのに、こっちは相手の表情さえ伺えない。
(だから、私にも皆さんのことを もう少し感じ取る権利があると思います)
エリザはにっこりと微笑み、両掌を彼らの後ろに据え直す。そして、周りの雲ごと五人を左胸にそっと抱き寄せた。命の灯を視る限り別状は無いため、悲鳴の類は無視だ。

そこまでやって、小さな命が自分に触れていることをエリザは辛うじて感じ取ることが出来る。それだけでも十分だと彼女は思った。
では、彼らはどうなのだろう? 
視線を向けてみると、特に問うてもいないのに様々な反応が返って来る。
(本当に大きいよなあ)
(ここまで大きいと、何がなんだか)
(街くらいなら簡単に潰せそうだよなあ)
(そ、そんなことしませんよぅ)
さすがに抗議するものの、一対五ではどうにも分が悪い。
(あ、地響きが早くなった。これ、もしかして心臓の音?)
(地響きって……)
ひどい言われようである。